コンピュータとの長い長いおつきあい
なれそめ 1968年から1年あまりの間、米国市場の様子見も行なうという名目で社費派遣のポストドックフェローとしてカリフォルニア大学バークレーに滞在しました。 研究室での "仕事" とならんで力を入れたのがコンピュータ利用技術の習得でした。 当時のUCBにはコンピュータセンターにコントロールデータ製CDC6400と Machine Design 学科の計算機室にDEC製PDP-7とを備えた豪華な計算機環境がありました。 特に後者は機側にぶら下げてあるノートにサインアップすれば何時間でも自由に使ってよいというありがたい運用をしていました。 夜中に使う者殆どいないのに目をつけ、一晩中DEC機のコンソールに座って習い覚えたばかりの技術計算アルゴリズムを、納得が行くまで繰り返し験すことができました。 全てが英語ベースの知識で日本語の用語を殆ど知らないというハンデはあったのですが、UCBで身に着けて帰った実践的なコンピュータ利用技術は1969年 末の帰国後、仕事のさまざまな局面で大いに役立ちました。 特にメカトロニクスの応用による生産の自動化ではソフトウエアロジック制御を導入する事でそれ以前には不可能だったフレキシビリティーが得られました。 また趣味の面でもあとから現われたマイコンを色々な面で活用することができ、生活面でも大いに恩恵を受ける事ができました。 ホーム LAN 1999年末に現役を退きましたがそれによる恩恵のひとつは、時間的な余裕ができたお蔭で以前より多くの時間をパソコンいじりに費やせるようになった事です。 引退後の最初の年に取り組んだのはホームLANの構築でした。 性能的に古くなったPCでもネットワークに繋ぐと機能が相互に補完されて元気になりま す。 また外部とブローバンド接続をすると最近とみに充実してきたインターネット上の情報が活用しやすくなります。 次の年に手をつけたのは、あまりにも古くなって新しいソフトを安定して走らせなくなったPCの更新でした。 引退する直前にBTO(=Built To Order)機を導入してメイン機だけは更新していました。 購入時点で最先端だった Athlon 900MHz CPU に容量たっぷりのハードディスクを組み合わせたBTO機は快適なPC環境を提供してくれていたのですが最初の夏に気が着いた事はCPUの発熱量が非常に大きく、部屋のクーラーの利きが悪くなるほどだと言う事でした。 内蔵クーリングファンの騒音も気になりだしました。 ベアーボーンキットPC 時々山に行っているのですが特に夏には一週間前後にわたる長期山行が多くなります。 留守の間、家族が必要な時に随時ネットワークプリンターを使える ようにしておくために、発熱が少なくて静かなサブマシンが欲しいと思いました。 BTO機を導入した時に構成要素の仕様を決める要領などが分かったので、 今度はもう一歩進んでベア-ボーン機を組み立てて見ることにしました。 選んだのはBステップ1GHz Cerelon CPU を搭載したコンパクトデスクトップタイプ機でした。 組立作業は思っていたより簡単で、短時間で 終わりました。 何やかやで一週間分ほどの山歩きに相当する小遣いを注ぎ込むこととなりましたが、非常に静かでクールな機械が完成し、真夏の冷房を止めた 部屋に安心して点けっ放しにして置けるようになりました。 初め、このPCはサブマシンの積りだったのですが必要な時に即動してくれる便利さと思いのほか高い処理能力に惹かれ、ひとつまたひとつとソフトやハー ドを移しているうちに何時の間にかメインマシンの座を獲得してしまいました。 無理やり外部に引っ張り出したIDEケーブルに40 Gbyte ハード ディスクを接続して実質的にミッドタワー機並みの機能を持たせていましたがときどきドライブ認識のタイムアウトエラーが起きるのが気になってきたので USB 接続形の 80G 外部ハードディスクと交換しました。 これによって、5年以上もの間CPUを換装したりハードディスクを増設したりしながら使いつづけていたIBM製ミニタワー機を撤去できるようになりました。 ジャンク部品を活用してPCを自作する このとき各種のディスクドライブや拡張ボードは完動してたので全部取り外してキープしました。 これらの部品を適当なマザーボード/CPUとともに適当なケースに収容すれば大した金をかけずにソコソコの性能のPCが作れると思ったからです。 2、3ヶ月経った頃、ついでの時に秋葉原に立ち寄り、裏通りのジャンクショップが投売りに出していたATXマザーボードを購入して帰りました。 さらに秋 葉原ショップ郊外進出の流れに乗って自宅近くに開店したマニアショップで見つけた中古のCPUをはじめ、メモリーカード、リムーバブルハードディスクユ ニットとケースなどを入手。 マザーボードの詳細技術資料が入手できず手探りの組み立て作業になるという苦労はありましたが僅か2万円あまりで新しいPC が一台出来上がりました。 このPCではリムーバブルユニットに搭載してあるシステムハードディスクをワンタッチで交換できます。 捨てずにキープしてい たDOS/Vなど、かつてお世話になった各種のOSを次々に復活させ、昔愛用したソフトを走らせながら2、3個月の間楽しく遊びました。 手狭に感じた古 いハードドライブもDOSや Windows31 から見れば広大無辺です。 時が経つにつれ、この機械は Windows98SE として使われる事が多くなりました。 Windows2000 に比べてブートアップが早い事と32G byte を越すハードディスクのフォーマットができるという "特技" があるからです。 コンパクトデスクトップ機から取り外した30G Bbyte ハードディスクをシャドウベイに取り付けてホーム LAN の共有ドライブに設定、サイト全体のバックアップデータストアにしました。 CPUも Cerelon 1GHz にグレードアップしてメモリーも 256 Mbyte に拡張。 デバイスドライバーが Windows2000 としっくりしていなかったミノルタ製の35mm フィルムスキャナーをこちらに引っ越すため、フルカラー SXGA 表示ができるグラフィックカードに変更しました。 Linux ここまで来た所で俄然 Linux が気になりだしました。 Linux には我が国に入ってきた当初から興味を持ち、新しい解説本や CD-ROM が出るたびに買い込んでは書棚の肥やしにしていました。 折角だ からもう一台まっさらなPCを組んで Linux専用機にすれば、少々ごちゃごちゃしてきた我が家のLANのデータファイルの統合に役立つサーバが構築で きるのではないかと考えました。 さして広くもない書斎のデスクの周りにはもう3台ものPCが置いてあっていささか手狭になっていたので今度はコンパクトタイプのケースにマイクロATXマ ザーを組み込み、省エネ低発熱形CPUとして注目されていた VIA(Cyrix)C3 CPU(866MHz) を搭載しました。 ハードディスクはベ アーボーン機に使って低騒音高信頼を確認した Maxtor 社の流体軸受け40Gbyte タイプです。 要領が分かってくればPCハードの組み立ては CPUクーラを取り付ける簡単なツールの用意と力の入れ方のほかに難しい事はなく、なにやら "レゴ" の組み立てのような容易な作業に過ぎません。 Linux は手持ちのどれかのリリースバージョンで良かったのですが StarSuite V6 と ATOK X をバンドルした Turbo Linux 8 Workstation が発売されたばかりだったのでこれを購入してインストールしました。 非常に出来の良いインストー ラのお蔭で、いとも簡単にインストールが終了し、殆ど何もしないうちにLANに繋がってインターネットへのアクセスが可能な状態になっていたのにはビックリしました。 samba で大苦労 ところがです。 ここがそれ以降、半年近くに及ぶ苦労の始まりでした。 出来上がったばかりの Linux機をファイルサーバに仕立てようと、いい気 分で samba の設定を開始したのですが、UNIX系OS の基本概念の理解がなまくらな所へインターネットに掲出されている日本 Sambaユー ザー会のドキュメントがあまりに膨大なためとても通読する気力が出てこないまま、いい加減に試行錯誤を繰り返してみたものの全く歯が立たず、初めLAN上 に見えていた Linux機の姿もどこかに消えてしまいました。 ちょうど夏山シーズンで山の方が忙しかった事もあって一時ギブアップとなりました。 その後も書店で samba を取り上げている雑誌や Mook を見つけるとそれを買って来てはトライをしていたら僅かながら進展があって後述の SWAT や Webmin が動くようになって来たりしていはしたものの決着がつくまでには至らず、結局半年近くも掛かってようやくほぼ終結と言う、 これまでにない長期間のトラブルシューティングとなりました。 なぜそんなことになったのでしょうか? 年をとってボケがきたせいかと思いかけたこともありましたがどうもそうでもなかったようです。 そのひとつは、 Turbo Linux では改良のた めに一部の設定ファイルなどのローカライズが行なわれているのだがそれに関する情報が分かりやすい所に掲出されていないこと。 もうひとつは世の中に出て いる samba 利用に関する解説の殆ど全てが Linux機を中心にLANを構築する事を前提とする記述ばかりで、既存のWindows ベース LANにメンバーの一員として参加させるにはどのように設定すれば良いのか、まともに説明している物がほとんどないせいでした。 原因の前者は、数多くの雑誌類のなかにたまたま Turbo Linux における samba 設定に関するローカライズの内容とそれへの対処を紹介した記事が見つかったお蔭で GUI で samba の設定を 行なうのに必要な SWAT(=Samba Web Administration Tool) と汎用システムアドミニストレーションツールの Webmin とがエラーメッセージを出さずに動くようになって問題解決への入口のドアが開きました。 上の結果、Windows 機から LAN に繋がっている Linux 機が見えるようになったのですがファイルの読み書きに必要なアクセス権の設定がうまくできません。 ここでふたたび一服状態になって年越しとなってしまったのですが年寄りが長期山行をするには少々厳しすぎる厳冬期になって時間的な余裕ができたので思い切って一日を空け、前年来の難問決着を図ることにしました。 あらためてマニュアル本を熟読した結果、SWAT による共有セキュリティーレベルの設定を "共有" や "ユーザ" ではなく、"ドメイン" とすればよいのだと言う事を "発見"。 これによって基本的な壁が破れ、目出度く Windows-Linux 混成 LAN が機能するようになりました。 異文化の平和共存には骨が折れる ここまで来て分かった問題はふたつ、まず Linux 系の euc と Windows 系のシフトJIS と文字コードの相違による不便です。 問題点の第2は Linux 機から Windows 機内のファイルへのアクセス性の悪さです。 前者は二、三の euc - shift-JIS 変換ユーティリティーがパブリックドメインで入手できる事が分かったので Windows機サイドはOKとなりました。 Linux 機側には nkf コマン ドがありますのでこれを使ってコード変換処理をするスクリプトを仕込めば問題解決ということにできそうです。 これに対し、後者については CUI 画面 で長ったらしいドライブマウントコマンドを打ち込むのを回避するのにどうすればよいのか、これからの検討課題です。 今の所の印象として Linux 機をファイルサーバーなど "サーバー" として使う限り、非常に安定かつ高性能で全く問題ないのですが、日常的なさまざまな作業をするワークステーションとして使うには少々問題があるということです。 StarSuite のように "使えるオフイスシュート" や "GIMP" のような高機能グラフィックプログラム、Sylpheed のような洒落たメーラーができたりして道具立てはかなり整って来たと思うのですが、一番気になっているのは GUI(主に Gnome 1.4 を使用) が頻繁に気絶する事で、ひと昔前の Machintosh とほぼ同じくらいの頻度でお亡くなりになるようです。 これではまだ誰でもがオフイスワークステーションとして使える状態になったとは言えないと思います。 またバグフィックスが活発に行なわれているという非常に良い慣習が根付いている反面、それを反映させるためには頻繁にアップデートインストールをしていなければならず、Total Cost of Ownership ならぬ Total Time for Ownership の要求値が高まります。 "マニアックな面白さには満ちているけれども、かなりの時間を掛け続ける覚悟をしない限り使い切れない" システムだなぁと感じています。 嫌だが離れられない アメリカ式の力を背景にした独り善がりの行動によって暴利をむさぼっている憎ったらしいマイクロソフトの傘の下から何とかして脱出したいと切に願っているのですが、何事によらず主流に逆らうのは茨の道であるようです。 その後の話(1) ハードウエア関係ではジャンク部品活用機の CPU を PentiumV 500MHz から Celeron 1GHz に換装してスピードアップ。 また、暫く前に中古パーツショップで買った ASUS のソケット370 440BX マザーボード が棚の肥やしになっているのを思い出したのでこれに PentiumV 800MHz CPU を乗せてタワー機を組み立てました。 オリジナルの IDE ポートは ATA33 なのですが Promise のチップが載せてあって ATA100 IDE ポートが付加されているので大形のケースに組み込めば沢山のディスクドライブを収容できて便利に違いないと思いました。 欲張りついでにCD-RW+DVD-ROM ドライブのほかに SCSI の PD/CD-ROM ドライブも組み込んだので古いメディアで保存していデータの救出に使えるという特技を持つPCが完成しました。 その結果、部屋のPC置き場からはみ出す事となった EPSON 製の BTO 機を、粗大ゴミに出すは勿体無いとキープしていた旧IBM機の CRTディスプレイと組み合わせて家族に払い下げました。 さらに Linux 専用機の 866MHz VIA C3 CPU がカッタルイように感じていたので、これも 1GHz の Celeron に交換してみたら大分スピードアップしました。 今となっては完全に一世代時代前の旧モデルばかりですがそれなりに粒の揃ったPCの集合体ができ、なかなか快適なコンピューティング環境になっています。 その後の話(2) ソフト面では不人気で短命だった Windows Me がどのように出来が悪いのか確かめておきたいと思ったので ASUS MB で組み立てたタワーPCにはこれをインストールしてみました。 なるほどレスポンスは悪いばかりでなく、メモリーハンドラに不具合があるようで頻繁にメモリ不足メッセージを表示して言う事を聞かなくなるということが分かりました。 頭にきてマザーボード能力一杯の512Mbyte までメモリーを増設してご機嫌取りをしていますがすぐ隣で Windows2000 pro が256Mbyte のメモリーでビンビン走っているのと比べれば優劣は明瞭で、マイクロソフト社が早々に一般用OSを WindowsXP に切り換えたのが良く分かりました。 その後の話(3) Linux の方でもこの秋に新しい動きがあり、9月に Lindows、ついで10月に TurboLinux 10 Desktop Suzuka がリリースされました。 両方とも Windows との親和性に対する配慮が織り込まれ、Windows に慣れたユーザにも取付きやすいようなユーザインターフェイスとユーティリティーを備えていると宣伝しています。 TurboLinux 8 Workstation ではやや挫折気味となりましたが TL10D なら何とかできるのではないかと期待しつつインストールしました。 Windows LAN とのソフトレベル接続も、初期インストールで samba と swat も付加したため最初からできました。 しかし、ダイレクトリ/アクセス権の設定、文字コード変換や Windows LAN プリンターの接続などをひと通り済ませて快適利用環境が構築できるのはこれからです。 前回の苦労は大略の記録に残してあるのでこれからボツボツつつき回して何とか使い物に使用と思っている所で、目鼻がついた時点で試用の報告を出そうと思っています。 |