会津 寺社巡りと高寺山・奴田山 (2018.6.13-16)
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☆期日/(天気)/山行形式: 2018年6月13-16日 市中ホテル3泊、4日の山と寺社巡回
数日間滞在して、天気が良い日は盆地周辺の低山に行き、もし雨模様だったら会津三観音をはじめとする寺社巡りをする、と言うアイデアです。
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☆6月13日(曇、山中は霧雨): 新潟から西会津町へ。 春祭り中の大山祇神社御本殿を参拝した
☆行動時間 ☆ルートの概況 早朝に出発し、もう少しでお昼と言う時間に着いた野沢駅は、駅前通りに幟が並べ立てられていて、華やいだ雰囲気になっていました。 改札にいたおばさんに聞いてみたら、鳥追観音の先の谷の奥にある大山祗神社は6月一杯の長い期間お祭りなのだそうです。
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野沢駅は普段は無人のようですが祭の期間だけ、地元の女性が出て改札と案内をしているようでした。 神社の様子と臨時バス乗り場の場所を聞いた上でサブザックのパッキングを行い、不必要なものは駅で預ってもらい神社に向かいました。 野沢駅前から15分程で到着した大久保は、 バスの終点に面した広場に沢山のマイカーが来ていました。 まわりのお店も賑やかに営業していて色んな物を売っています。 お昼時をまたいだ行動になるので行動食になりそうなものを調達した上で御本殿に向かいました。 |
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大久保の集落の裏手に出るとすぐ川で、橋を渡りました。 右岸に沿った参道を進んでゆく谷間には、雪深い土地の雰囲気が充満しています。 |
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林道くらいの幅の手入れの良い非舗装路を進んで徐々に登って行き、枝沢を渡ったあとで小尾根の端に掛かる所に不動尊の鳥居がありました。 右下の本谷に滝場があって修験道の行場になっているようです。 |
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道端の所々に丸太を切り出して作った椅子が置いてあります。 林業地帯に伝わる木工の技を示していてなかなかいい感じです。 流れを渡って左岸に移り、わずか進んだ所が矢作(弥作)の滝でした。 細長い広場の奥手に小ぶりの社殿が立っていて、扉に架けられた由緒書には、宝亀年間に真海法師がこの滝の上に庵を結んだところ霊験によるお告げがあり、宝亀十年九月九日に大山祇神社のご遷宮が行われた、旨が記されています。 |
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広場の手前側には夫婦双身の道祖神石像があり、 その脇に "出合い" と題する解説立て札が立っていました。 賽銭箱があるところから "なじょな願いも聞きなさる" と言う大山祗神社の願掛け場のひとつ、ということが分かります。 |
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谷奥に進むに連れて雨模様になって来て、折りたたみ傘を出さなければならない程になりました。 かなり登った筈と思いだした所の道端に "杉並木参道" と記した看板が立っていました。 看板の手前から右手に古い参道が分岐しています。 |
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旧参道に入って進むと、石畳の道の両側に杉の大木が並び立ち、荘重な雰囲気が漂っています。 昔の人達は、大久保から御本殿まで、このように森厳な空気が漂う参道を歩いて参詣していたのでしょう。 |
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まどろみ地蔵 (画像をクリックすると拡大) |
ひと登りした所で林道と交差しました。 林道の向こう側へ進入する道の入口に "本社へ 600m" と記した道標、道を挟んだ向かい側に "まどろみ" と題した双体神像が置かれていました。 |
僅か進んだ所から急な石段になりました。 段の角や踏面の摩耗は認められず、新しい時代のもののようでしたが踊り場のない長い階段はなかなか厳しい登りでした。 |
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毎年の冬の豪雪に耐えて大きく成長した杉の並木には荘厳な雰囲気が漂っています。 |
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急登から抜けだし、ホッとして進んでゆくと、細い水流があり、そのすぐ先の左手に童神が合掌している石像がありました。 横に立っている札には "よろこび" と言うタイトルが記されています。 |
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石像の先を僅か登ると神殿直下の広場に出ました。 数基の野外ベンチが並んでいてその向こうには2階建ての参籠所がありました。 |
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短い石段の上の鳥居の後ろに御本社の神殿がありました。 簡素な造りながら荘厳な雰囲気が漂う御本殿は長年にわたる山歩きでお世話になってきた大山祇神です。 今度の旅の無事を祈り、軒下に入って小休止をしながら雨宿りをさせていただきました。 |
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大山祇神社御本殿 (画像をクリックすると拡大) |
社殿に隣接したお札所にいた神官に神社の裏手から登ってゆく破線の先にある奥の院と、その背後の岩記号の上にある台倉山(863.2)頂上の様子を尋ねてみました。 奥の院までは道があるので行ける。 その先は、地元の人で登っている者がいるとのことで、崖を交わして頂上に達するルートがあることが分かりました。 地元の山の会は、西会津十三山というタイトルのパンフレットを配布しています。 飯豊の前山にあたるこの山域は、高さはなくても雪が深く、残雪期に楽しめる面白い山がいくつもあるようです。 西会津山巡りを行う機会が得られたら、この台倉山の登頂を試みてみたいと思いました。 |
お腹が空いて来ましたが雨模様のため外で物を食べる事ができません。 参籠所の母屋と風呂場の間の屋根の下に入って雨を避けながら大久保で買ってきた餅菓子を食べ、下山に必要な糖分を補給しました。 雨で濡れた石段はスリップする危険があるので林道を通って下山することにしました。 こちらは距離が長くなりますが急坂がなく、傘を指してのんびり歩けます。 |
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ここの林道歩きの楽しみは素朴豪快な木工によるアウト・ドア椅子と暖かな雰囲気を漂わせている道祖神の石像です。 石像はどれも家族の情愛を彫り出したもので、ここの神様が農作の豊穣だけでなく家族の親密平安をケヤーしてくれることを表しているようです。 神社から1km あまり下ったところには、左のように、赤ちゃんを抱いている母親の像があり、とても良い感じでした。 |
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山を下るに連れて雨が弱くなり、不動尊のあたりから下は傘が要らないくらいになりました。 日本海側の山の斜面では地形の影響によって局地性の雨が降ることが多いようです。 午後の早い時間に大久保に戻りました。 |
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次のバスまでに時間があったので大山祇神社里宮にも参詣することにしました。 両側に大きな幟が立てられている石畳の参道の奥に端整な神殿が鎮座していました。 |
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御本殿にお参りするには少しばかりの体力と時間が必要で、雨の日などには可成り行き難いと思われます。 天気が悪い日に来た人や年取って足腰が衰えた人は、こちらにだけお参りして帰ることが多いようです。 |
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野沢駅行きのバスを途中下車して鳥追観音に立ち寄りました。 珍しいことに、バス停の後ろの広場の端に巨大な鉄道除雪車が展示されていました。 左は前方から見たロータリー除雪車で、側面に掲げられている説明板には、 長岡第一機関区常備 回転雪カキ車 キ621 と記されていました。 |
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ロータリー車の後ろにはラッセル車が置いてありました。 こちらの説明看板には、 単線用ラッセル雪カキ車(マックレー車) キ172 と書いてあります。 これらは昭和51年まで新潟の豪雪地帯で冬季の鉄道交通維持に大活躍していたそうです。 これらの除雪車は大宮の鉄道博物館にもなかったような気がします。 貴重な技術遺産の展示、と思いました。 |
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鳥追観音堂は、大山祇神社の参詣道の途中にあるせいか、南正面の造りにも関わらず東西に通り抜けし易い独特の造りになっています。 大山祇神社に参詣するため野沢の方から歩いてきた人は仁王門を潜って境内に入ると左の写真のようにお堂の東口の前に着きます。 お堂に上がって右手におられる御本尊を拝み、先に進むと、その先の方には西方浄土があると信じられている西側の出口です。 |
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豪雪に耐えるためか観音堂の内陣は左の写真のような極太の柱に囲まれています。 拝観が終わったあとバスが来るまでの時間に腹ごしらえをしようと門前の食堂に入り、かき揚げ天ぷらそばを注文したらカリカリの天ぷらを乗せた絶品級の蕎麦が出てきました。 見掛けは貧相な店だったので、あまり期待していなかったところだったのでまさに驚きの会津辺境の美味でした。 野沢駅には程々の時間に着いたものの若松方面行の列車は2時間ほどあとの午後6時過ぎでした! おばさん達が5時に帰ってしまったあと、人気がなくなった駅の待合室で何もせずにブラブラ。 近頃忘れていた贅沢な時間を過ごして長い一日を終えました。 |
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(Android アプリの山旅ロガー |
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ヤマレコの山行報告 (作成中) |
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☆6月14日(曇のち晴): 会津坂下駅からタクシーでアプローチ。高寺山に登ったあと立木観音と ☆地形図(2万5千分1): 喜多方西部(新潟3号-3)、坂下(新潟3号-4) ☆行動時間 |
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☆ルートの概況 |
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前日は大山祇神社御本殿参詣で欲張ったせいで宿に着くのが遅くなりましたが、あたりが静かなおかげでぐっすり眠れ、朝の早い時間にスッキリ目が覚めました。 通学時間の只見線列車は大勢の高校生が乗っていて賑やかでした。 この頃の田舎の高校生は、話し言葉が違うだけで見かけは都会の高校生とまったく同じです。 会津坂下駅でタクシーに乗り継ぐことにしていましたが朝早くから駅前で客待ちをする車は少なく、1台しか居なかったのが予約客を乗せていってしまったあと、長い時間待たされることとなりました。 |
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車は通勤ラッシュで混雑する国(県?)道を避けるためか、田圃の中の道を走って塔寺立木観音前バス停に着きました。 高寺山の登山口まで行ってしまったほうが楽だし時間の節約にもなったのですが、あえてここで車を降りたのは、山から降りてきて立木観音堂を拝観したあとここからバスに乗って会津坂下まで行き、街中で若松方面行の便に乗り継ぐ計画だったからでした。 バス停ポストに取り付けられている時刻表でバスの時間を確認してから山に入りたいと思っていました。 、 |
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程よい時間に通過するバスの通過時間を確かめた上で高寺山へのアプローチを開始しました。 塔寺の山門の前を通り過ぎた所にあるT字路を右折し、境内の境に沿った道を進んでゆくと高寺山の麓に沿って北上する道になりました。 |
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緩やかな坂を登ってゆくと果樹園や畑が広がる高台の上に出ました。 |
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写真の説明 (画像をクリックすると拡大) |
右手に会津盆地が広がり、雲を棚引かせた磐梯山が遠望できました。 |
農業試験所の門の前を通りました。 お米、お酒、蕎麦など会津の美味しい名産品の原料になっている農作物の試験場です。 |
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Android 端末に地形図を表示させ、GPS から取得した現在位置を参照しながら登山口を探索しました。 参考にした記録の取り付きは多分ここだろうと思われる地点に林道入口があることことを確認したのですが、設置されている筈の登山口の標識がなく、ロープが張り渡してありました。 頂上はもっと先の方の左手にありますからさらに先に進んでから山に入った方が良さそうです。 道の左側に注意しながら先に進みました。 |
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杉林の間から抜け出してまわりが開けると数軒の新しい家が建っていて、その筋向かいの山畑の間を通って山に向かう道がありました。 入り口の角に "高寺山 無明門跡登山口" と記した標識が立っています。 |
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畑の間の道を進むとすぐ杉林の中に入りました。 古い参道のようで両側に大木が並び立っていますが、歩く人は少ないようで路面が草生しています。 |
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進むに連れて徐々にヤブっぽくなってきました。 小尾根の末端に突き当たる所に赤塗の鳥居が立っているのはこの上に氏神様か何かの祠があるのでしょうか? 道筋は左右に分かれているようでした。 左手はヤブが深くて侵入困難ですが、右手には藪はなく、うっすらした踏み跡が続いています。 |
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右手の踏み跡も人通りが少ないようで藪が被ってきている所ももありましたがかすかは人跡を拾いながら進んで行きました。 |
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谷の詰めに掛かると登りが急になるとともに道形がはっきりしてきました。 |
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ひと登りで鞍部に上がりました。 "二重平までもう少し" と記した案内板が立ち、右手の尾根筋に入ってゆく道の入り口には "スキー場頂上へ" と記した案内板が立っています。 |
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鞍部の裏側へ下ってゆく道はヤブっぽく荒れ気味でしたがすぐに林道のような幅広い土道に出合いました。 出口には "取り上げ峠" への入り口を示す標識板が立っていました。 林道には作業用の軽トラックなどが通った痕跡が残っていました。 |
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左折して林道を進んでゆくと "登山コース 会津自然の家" と記した案内看板があって、その手前から右手の斜面に上がってゆく歩道が分岐していました。 |
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曲がり角の向かい側の藪の縁に一輪、赤みがかった黄色のやまゆりが咲いていました。 |
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進入したルートは道形明瞭で気持ちよく登高してゆきました。 ひと登りすると上の方が開け、新緑の先に青空が広がりました。 |
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尾根の背に上がった所で左折。 赤松が目立つ尾根道を進みました。 |
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道形は明瞭なのに所々に黄色いビニールテープが張ってあるのは少々やりすぎでは、と思いましたが自然の家から登降する子どもたちがルートから外れるのを防ぐためと考えれば納得できます。 |
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ヒバの林に覆われた尾根を緩やかに進んでゆくと小さなコブに登り着きました。 坂下と喜多方の境界が通っている高寺山頂陵の一角で、上面が赤く塗られた標石があって背後の樹木には "境界見出標 17" と記した標識板が掛けられています。 |
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ほぼ直角に左に曲がって境界尾根の背を進むとすぐに頂上の切り開きに着きました。 広場の入り口寄りには "展望台へ100m" と記した案内板がありました。 |
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広場のまんなかに三角点標石がありました。 この標石は2万5千分1地形図の高寺山頂上に書き込まれている 401.5m の三角点の物です。 |
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"展望台" への案内板に従って進んでゆくと、ルートが左へ曲がってゆく角の正面に "← 展望台" と記した自然の家登山コースの案内看板があったのでそちらに進んでみましたがまわりは濃密な林で何も見えず。 |
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そのまま進み続けると間もなく草生した沢窪の中へ導かれました。 楽しみにしてきた飯豊連峰の展望に接することができず、少々がっかりしましたがここで時間を使いすぎるとあとに予定している行程の消化が難しくなるので仕方なく、草薮を押しながら沢窪を下降して行きました。 |
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沢窪の下の方まで降りてくると道形がはっきりしてきて歩きやすくなりました。 |
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やがて草生した林道に飛び出しました 路面の刈り払いはここまでで止まっていて右手は濃密なヤブに塞がれ、否応なしに左折しました。 |
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暫く進むと林が途切れ、平らな萱原が広がっている所に出ました。 二重平と呼ばれている山中の平地で古代には徳一法師が開基した大寺院があった所です。 地形図の縮尺を拡大すると建物の記号が書き込まれていますが茅戸の背が高く別段の物が見えないので特に詮索もせず通過しました。 |
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先刻右折して頂上に向かった所を通り過ぎてゆくと、取上峠への入口を示す標識が道の両側に立っていて迷うことなくルートに進入することができました。 |
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峠の乗越に上がった所で左折して行くときれいな濶葉樹林に入りました。 6月中旬のこの頃、春が遅い会津の里山の山林には新緑の精気が充満しています。 |
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写真の説明 (画像をクリックすると拡大) |
左手の視界が開けている所があり、飯豊から吾妻あたりと思われる山並みを遠望できました。 |
"5" と記したスキー場の標識プレートが架けられた樹木がありました。 また、そのすぐ先の樹木に "あと100M と記したプレートが木にかけてあるのが見えました。 |
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標識を見た所から僅か進むと右の林の隙間にスキー場の通信施設と思われるアンテナが立っているのが見え、間もなくリフト頂上駅の索条輪の横手に出ました。 |
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左手にある滑走面の草原を下ってゆく踏み跡が見えたので進入し、下ってゆくと次第に視界が広がってきて、左手の飯豊から吾妻を経て右手の磐梯山へ並んだきれいな山並みを見渡せる所に来ました。 下のパノラマ写真で画面中央付近の枯れ枝の先の方に見える残雪の山が飯豊と思われます。 |
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スキー場上部から飯豊、吾妻連峰 (画像をクリックすると拡大) |
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写真の説明 (画像をクリックすると拡大) |
更に下って滑走面の中ほどまで来ると正面に磐梯山が見えるようにになってきました。 朝方かかっていた雲が取れ、きれいに尖った頂上がくっきり見えます。 |
スキー場の下部まで降りてきました。 草原に花が咲き、のどかな景色です。 町立のこのスキー場は、ごくささやかな施設ですが地元の大人や子供達が手軽にスキーやスノボーを楽しめる場所になっているようです。 |
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スキー場の裾を横切ってゆくと日帰り温泉 糸桜里の湯ばんげの大きな建物の下の駐車場に出ました。 まだ先が長いので駐車場の隅で小休止しただけで先に進みました。 |
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山裾の道を1時間ほど歩いて塔寺のバス停に戻り、坂下行きバスの時間を確認した上で境内に入りました。 入口近くの右手に小振りで奇麗な三重塔が立っています。 |
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観音堂はいかにも会津らしい素朴堅固な建物でした。 堂内に入る時間がないので銭函に銭を投げて拝むだけで済ませました。 |
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参道脇にある脇堂で端整なお姿の阿弥陀如来像を拝んでバス停に戻り、会津坂下行きバスに乗って坂下の仲町バス停まで移動しました。 |
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坂下の街の中心にある役場のすぐ横の仲町バス停で乗り継ぎの若松方面行バスを待ちましたが少し時間の余裕があったのでまわりを見回したらひとつ裏の通りの向こう側に立派な山門があるのが見えました。 近づいてみたら光明寺という浄土宗の寺で、門の中には手入れの行き届いたとても綺麗な庭がありました。 |
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若松行バスに乗り継いで15分あまり。 阿賀川を渡ったところにある道の駅あいづで途中下車。 道の駅に入ってみたら左の写真のように、とても洒落た感じのレストランがありました。 ここで食べた蕎麦も前日に引き続き絶品でした。 暫く食休みをしたあと勝常の薬師如来堂に向かいました。 阿賀川の堤防の上を歩いてゆくと川の向こう遥かに飯豊連峰が雲間から姿を現していました。 豊富な残雪に覆われている頂稜は神々しいほど美しく見えました。 |
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飯豊から吾妻への山並み (画像をクリックすると拡大) |
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堤防上の展望の道から田圃の中を行く農道を通って合計30分たらず歩いた所で勝常薬師如来堂の山門に着きました。 大分傾いていて大雪でも降るとつぶれてしまうのではないかと心配になるほどでしたが縄で縛っただけで組み立てた柔構造にはポキンと折れる部分がないのでなかなか倒壊しないのかもしれません。 |
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門の下に入って見上げると左のようになっていて古風な造りであることがよく分かります。 |
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薬師堂には関東以北では随一と言われる国宝薬師如来像が安置されています。 予約なしで拝観することができなかったので今回はお堂の外からの遥拝しただけで終わりましたが、来た道を戻る前に森閑と静まった境内でゆっくり休みました。 |
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門前の集落を通ってゆくと、どの家にも二重屋根の蔵があるのに気が着きました。 屋根の上に雪が乗っている時期が長いので湿気が籠もらないようにする工夫かもしれません。 集落から出たあと、来たときとはすこし違う道筋の田圃の中の道を歩き、道の駅に戻ったあとバスに乗って30分程で若松に戻り、盛り沢山な一日を終わりました。 |
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(Android アプリの山旅ロガーと地図ロイドで作成した地点マーカーと GPS軌跡とを 国土地理院地形図を表示しているカシミール3Dにインポートし、重畳表示させて作成) |
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ヤマレコの山行報告 (作成中) |
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☆6月15日(曇): 院内の七面大天女堂から奴田山(青木山)に登ったあと鶴ケ城北口まで街歩き。
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☆行動時間
☆ルートの概況 |
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駅前から市内観光様巡回バスあかべぇに乗って院内に行き、七面大天女堂への入口を探し始めたところで "おけいの墓"
への案内看板に気が付きました。 "おけい"さん は戊辰戦争のあと下北半島に "強制移住" させられた会津藩士の一部がゴールドラッシュの米国カリフォルニア州エルドラド郡に移住したグループの中にいた少女です。 1960年代末にカリフォルニア大学バークレイに客員研究員として滞在した事がありました。 学生と違って時間の余裕があったので、外国から来ていた学生のために催行されていたツアーに積極的に参加していましたが、それらの中でエルドラド郡中心の町である Placer Ville を訪ねる機会があって "おけいさん" には特別な関心がありました。 |
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肝心の七面大天使堂への入り口は標識が見つからなかったので Android 端末に搭載された GPS を使った探索をしました。 始めに選んだ道は間違いだったのであと戻りして仕切り直しとなりましたが "おけいさん" の看板からさほど離れていないところに入口が見つかりました。 谷の西側の山に向かって、半ば耕作放棄になっている畑の中を進んでゆくと、山裾を流れている川に架かっている橋が見えてきました。 |
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ガーター橋ですが床板が継ぎ接ぎになっているほどの老朽橋で荷重制限2トンの看板が梁に掛けてありましたが徒歩で渡る分には何も問題ありません。 |
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橋を渡るとすぐ左折してしゃ上し、さらにもう一度右に折り返して台地の縁に上がると右手に平らな畑が広がっていました。 山に向かって進む道が "里山農園吊り橋の里" の方に向かって右カーブする角の所からまっすぐ山に向かって進む細い道に進入。 |
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山に突き当たる手前で左折するとすぐ、左の写真のように幟が林立している参道の袂に着きました。 並び立っている幟は、赤地に "南無七面大天女" と白文字を染め抜いてあります。 |
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賑やかな参道の上にある七面大天女堂は至って簡素な造りでした。 保科正之の母、浄光院が、身延の七面山(1982メートル)を深く信仰していたことに因み、2代藩主正経が、七面山の山上に祀られている 「七面天女」(七面大明神)を勧請したお堂で、対岸の山中にある松平家墓所の裏鬼門(南西)を守っているのだそうです。 |
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大天女堂の左側から山に上がってゆく歩道が見つかりました。 案内標識などはありませんでしたが山勘が "これだッ" と言うので進入しました。 |
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杉林の中を登ってゆく歩道は少々藪っぽいものの、笹を刈り払った形跡が認められ、手入れに来る人がいることが分かりました。 |
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ひと登りで尾根の背に上がると、右下から登ってきた道と出合いました。 T字路の角に頭が赤く塗られた標柱が立っていました。 |
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左折して登高してゆくと右下に開けた谷が見えてきました。 谷窪を埋めている山林はあまり人の手が入っていない感じの自然林です。 右手に向かって斜面を横切ってゆくと谷向いの尾根越しに会津盆地が見渡せるようになってきました。 天気がもうひとつで靄が立ち込め、遠くは見えませんでしたが、大気が澄んだ日に来れば磐梯山から吾妻、飯豊あたりの山並みが見えるに違いありません。 |
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ひょっこり林道に飛び出しました。 青木団地から登ってきている明光寺林道の上部です。 東山温泉のある湯川谷の向い側の背炙山の尾根筋が見えました。 いずれあちら側にも登って "おけいさん" のお墓を訪ねたいと思いました。 |
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林道の向かい側の尾根に上がるとすぐ麓(葉)山神社への道が左に分岐していました。 麓山神社はかつて、多くの参詣者が訪れていたそうですが今は廃れ、遺跡化しているようです。 |
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麓山神社背後の荒佐原山(546.1m)の肩に上がって右手へ進んで行くところは穏やかで美しい新緑の森でした。 |
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道はとても良く、随所に赤テープのコースマークや "青木山" と記した標識があるので、安心して気持ちよく歩けます。 |
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奴田山の頂稜の端に上がって傾斜が緩んだ所で右下のこどもの国スキー場から登ってきた道と出合いました。 木陰に丸太ベンチが置かれていて、良い休み場です。 |
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尾根の背を進んでゆくと幹の中間で折れた倒木がありました。 まるで門の様になっているのが珍しいと思いました。 落雷で幹の中間が損傷したあと強風で吹き折られたのでしょうか? |
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若松市街俯瞰 (画像をクリックすると拡大) | 間もなく奴田山の頂上と言うあたりに右手に視界が得られる所がありました。 山麓の会津若松市街と、その先に広がっている平地を見渡せる展望スポットでした。 |
展望点のすぐ先に "←青木山頂(左妙見様)" と記したプレートがありました。 南へ延びている頂稜に進入する道が分岐している所を過ぎるとすぐに頂上広場でした。 |
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頂上広場は中木に囲まれたひっそり静かな所で三角点標石(723.3m) と白塗りの山名標柱がありました。 見知らぬ土地の初見の山に無事登頂できたことでささやかな満足感に浸りながらきれいな新緑の中で暫し休息を楽しみました。 |
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下降路は頂上北面を流れ下っている青木川(?)左岸の尾根を下降し、石峰と書き込まれている露岩記号の上を通って県営青木団地へ下山するルートを選びました。 尾根の背を緩やかに降りてゆくと下から登ってきた地元の若いカップルと出合いました。 どこから来たかと聞かれたので神奈川からと答えたら、わざわざ遠くの山を登りに来てくれてありがとう、と言うふうな挨拶をされました。 東北の山を歩いていると、遠くまで登りに来てくれてありがとうというような挨拶を受けることがよくあります。 北に住んでいる人達の純朴の顕れと思います。 |
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下降路は赤松が目立つ綺麗な山林の中を降りてゆくもので、所々にやや急なところがあるものの概して穏やかでした。 若松市民に愛されている山に相応しく、とても良く整備されていて、藪っぽいところや崩れて危険なところはありません。 |
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標高500m の等高線の上のやや平坦な台地状の所に動力鋸で切った倒木を道端に横たえた休憩所(?)がありました。 |
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丸太休憩所のすぐ下から尾根の背を外れ、西側の沢溝状のところを下って高度を下げたあと右手にまわって青木団地へ向かう所では左手の視界が開け、会津盆地とその向こう側の山並みが見えました。 |
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右手へ下ってゆくと下の方に林道が見えてきました。 |
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谷の縁の急な所を下って対岸に渡り、林道に上がると大岩の下の室に山の神(?)が祀ってありました。 |
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左へもう一段登ったところが 黒岩山国有林 明光寺林道で、青木山・麓山への登路として最もよく利用されている一般ルートです。 |
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ルート図看板 (画像をクリックすると拡大) |
谷の出口に向かってのんびり歩いてゆくと獣避けの電気柵があり、その下に "青木山(奴田山)案内図" というタイトルの地図看板が立っていました。 |
谷の出口は青木団地で、大きな集合住宅が並んでいます。 |
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団地のすぐ下は戊辰戦争で激戦が行われて多数の戦死者が出た所のようです。 山林の中に沢山の墓石が林立し、入り口に "旧会津藩 大久保山共同墓地" と記した看板が立っていました。 |
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青木団地を抜けて麓の畑の中に出てきました。 団地の背後の山は七面大天女堂の裏の小山田山です。 山城の跡が残っているそうです。 |
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山麓の集落の道角に "なよ竹の碑 入口" と刻んだ石柱と "墓地の案内" 看板が立っていました。 中央のマスコミの一部には明治維新150年とか言うタイトルの記事を流布しているのがありますが、ここでは、不本意にも賊軍とされた上で敗戦の憂き目に遇い、不毛の下北への放逐という過酷な処遇を受けた屈辱と苦渋の記憶が150年経った今でも生々しく残存しています。 |
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県道64号線の小田橋通りに出ると、この日に歩いてきた奴田山の頂稜を見渡す事ができました。 県通沿いには、会津武家屋敷などがありましたがバスツアー客で賑わっている観光スポットには近づく気になれません。 捗々しい食べ処が見つからないまま歩き続けているうちに鶴ヶ城北入口まで来てしまいました。 |
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この先もう少し歩けば良い店が見つかったのでしょうが、面倒になったので来たバスに飛び乗ったら逆回り路線のバスでした。 、いま歩いて来た道をズゥーっと戻って行き、東山温泉まで行ってからようやく折り返しました。 結構な時間をかけて飯盛山下に着くこととなりましたが、午後の時間も遅くなってガランとしてきた食堂で "名物 喜多方ラーメン" を食べたあと休憩。 この日に予定した最後のスポットである白虎隊墓所の拝観にでかけました。 |
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ひと山登ったあと、あちこち歩いて疲れていたので手抜きならぬ足抜きで有料エレベータで山の上に上がりました。 "大人達のいわれなき戦い" に巻き込まれて命を失った前途有為な青年達の物語は悲痛です。 昭和の大戦で犠牲になった特攻隊員や学徒動員生など、膨大な無辜の命のことを思いました。 |
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墓地の横からまわって行った所に会津さざえ堂がありました。 さざえ堂は入り口から螺旋状にまわり登ってゆくといつの間にか下りになり、入り口に戻ってくる、と言う不思議な木造建築です。 関東から東北にかけて数箇所しかない珍しい建物ですが、常時一般公開されている所は稀です。 5月に訪ねた大田曹源寺のさざえ堂は午後にならないと入口を開けてくれないため、時間が合わず。 外側を見ただけで終わってしまいました。 |
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拝観料を払って入り口から入ってみると螺旋状の回廊がありました。 ぐるり回り登っていったら左の写真のような天井のある天辺に着きました。 その先は下りになり、ぐるぐる三回まわるとあっさり出口に戻ってしまいました。 3D CAD もない時代に、曲線加工が得意でない木工で、このような3次元構造を構想し、堅固な建築物として完成させた大工棟梁の脳みそは凄い、と思いました。 |
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さざえ堂の先には、白河の方から若松に戻ってきた白虎隊が通った灌漑用水路トンネルがありました。 山の裏川を流れている不動川から水を引いてくる水路は今でも現役で、豊富な量の水が流れ出していました。 前日に続き、この日も山から降りてきたあと、あちこちを見て歩く事ができ、盛りだくさんな一日となりました。 かなり満足して宿に戻り、近頃あまり食べなくなっていたステーキディナーで一人祝賀をしました。 |
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(Android アプリの山旅ロガー |
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ヤマレコの山行報告 (作成中) |
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☆6月16日(曇):中田観音を拝観したあと徒歩で会津高田の伊佐須美神社まで移動。 あやめ祭りを見て4日の山旅を終了しました。
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写真の説明 (画像をクリックすると拡大スクロール) |
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☆行動時間 ☆ルートの概況 |
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会津若松から近郊の町村へ向かう路線バスは、駅前広場の端を区切っている道路の向う側にあるバスターミナルから出ています。 中田観音最寄りの中田前を通るバスは新鶴温泉行きでした。 乗り込んだバスは、若松市中心部をまわったあと広い田圃の中に出て近郊の村に立ち寄りながら徐々に西の方へ進んでゆき、40分程かかって中田前に着きました。 途中では色々な景色が見られ、安上がりで楽しい観光ツアーとなりました。 中田前バス停は、田圃の中に数軒の家がある極く小さな集落の中にありました。 |
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西に見える里山に向かって進んでゆく田圃の中の閑散とした道路は、歩道と車道の間が花壇になっていて可憐な花が沢山咲いていました。 多分、近所に住んでいるオバァさん達の仕業でしょう。 (亡くなったうちのカミさんも似たようなことをやっていました) |
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国境の山並み (画像をクリックすると拡大) |
南の方を見ると田植えが済んだ田圃の向こうに山が連なっています。 国境の山地は雨模様かもしれません。 |
根岸駅の脇の踏切を通りました。 田圃の中にプラットホームと小さな待合小屋があるだけの至って簡素な駅です。 |
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踏切を渡った先に中田の集落がありました。 ささやかな門前町になっていて、旅館風の建物の間の通りの奥に寺の門が見えました。 |
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仁王門は平ったい赤瓦葺きで威厳を欠いているようにも見えましたが巡礼者の無事を祈願する大草鞋が懸けあります。 |
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観音堂は二重屋根の大きな建物でした。 猪苗代に住んでいた野口英世の母親が毎月泊りがけで参拝していたことで知られています。 本尊の拝観は予約が必要なだけでなく、特定の日時に限定されているので、一般の個人は簡単に拝顔することができません。 お堂の玄関で拝んだだけで帰ってしまうのは物足りなかったので門の隣の小屋の中にある売店に入ってみたらオバァさんが居てお茶を接待してくれました。 お茶を飲みながらあれこれ話し、土産に打菓子を買ったあと、伊佐須美神社へ徒歩でゆく道を教えてもらって境内の外に出ました。 |
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神社のある会津高田への道は、広い田圃の中を通ってゆくもので少々冗長でしたが途中には雀林法用寺の虎の尾桜への案内看板が出ていたりして、それなりに楽しく歩きました。 |
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高田の街が近くなってくると "伊佐須美神社 あやめ苑" の看板が見え、その先から "あやめ祭" の幟が並び立っていたりして、華やいだ雰囲気になってきました。 |
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只見線の踏切を渡るとすぐに会津高田駅前に出ました。 入口の上のトンガリ屋根が印象的な可愛い感じの駅舎でした。 |
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駅前通りから高田の町のメインストリートに出とうとする所にある十字路の袂に小さな水田がありました。 "官幣中社 伊佐須美神社 御正作田" と刻んだ石標が立っていて伊佐須美神社の田圃ということが分かりました。 古代、この地に稲作が持ち込まれた時に作られた模範陳列田の跡かもしれません。 |
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旧会津街道の宿場町だった高田は南北に細長い街で、通りに面して商店が並んでいます。 街の中ほどにある役所の前に "天海和尚生誕地" の解説看板と石像が並び立っていました。 徳川家康から家光まで三代の参謀として活躍した天海大僧正は、江戸の北の防御後拠点川越に居住し、日光東照宮の創建にも関りました。 |
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町外れ手前の大きな十字路を左折すると正面に伊佐須美神社の森が見えました。 道路に沿った細長い広場に露店が出ていて賑わっていました。 |
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神社の境内に突き当たると道路の向かい側に大きな石灯籠が立っていました。 灯籠の脇から境内に入って行く道の入口に奥州二宮、会津総鎮守と言う見出しで神社の由緒を記した看板が立っています。 伊佐須美はここに祀られている神々: 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と四道将軍のうちの2人、大毘古命と建沼河別命をあわせた四柱の総称だそうです。 第10代崇神天皇の時に派遣された四道将軍のうちの2人、北陸道を進んだ大毘古命と、東海道を進んだ建沼河別命とが会津で行き会ったことに由来して "会津" と言う地名ができたと言います。 |
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南に面している本殿の参道に出た所で左を見るとすぐ近くに本殿がありました。 最近火災があって焼失し、今あるのはごくこじんまりした仮殿でしたが大勢の参詣者が来ていました。 |
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無事に楽しく終わろうとしている今回の山旅への感謝を捧げました。 参道の途中に赤塗で重厚な感じのする鳥居が立っていました。 |
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長い参道が終わる所に石鳥居が立っていて、その向かい側に大きな池がありました。 池の周りの菖蒲園が花盛りであやめ祭りの最中でした。 |
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色とりどりの花が咲いている中でひときわ目立ったのがこのアヤメでした。 |
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大型のツアーバスが来ないので、あたりにいるのは地元の人達だけだったためか穏やかで落ち着いた雰囲気になっているのが良い感じでした。 菖蒲園前に出ていた露天で高田名産の梅の漬物を買って街中に戻ったあと、40分ほどのバスツアーをして若松駅に戻りました。 駅舎の中の食堂で遅いお昼を食べ、土産物店で喜多方ラーマンなどを買って家に帰りました。 |
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