伊勢路Ⅲ-1、相賀-馬越峠-尾鷲 (2009.5.21) |
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☆期日/天気: 2009年5月21日 曇 ☆地形図(2万5千分1): 引元浦(伊勢16号-1)、尾鷲(伊勢16号-2) ☆タイム記録 宮崎台[7:07]=あざみ野=新横浜[7:52]=(ヒカリ503号)=[9:21]名古屋[10:00]=(南紀3号)=[12:28]尾鷲-ホテル(12:45/55)-(13:00)県総合庁舎前[13:09]=(南紀特急バス)=[13:19]紀北町海山(13:23)-相賀神社(13:31)-真興寺(13:36)-便ノ山橋(13:58)-鷲毛入口(14:15/20)-林道出合(14:52/15:00)-馬越峠(15:10/25)-天狗倉山(16:05/25)-馬越峠(16:50/17:00)-馬越公園(17:30)-尾鷲神社(17:55)-(18:00)シティーホテル望月{泊} |
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◆尾鷲は今回歩く伊勢路の区間で唯一の町らしい町である。 駅から5分ほどのホテルに3夜の宿を借り、そこを足溜まりにして古道筋へ行き帰りする計画だった。 昼時に尾鷲に着くとすぐにホテルに向かい、各自の荷物を預けたあと、最寄の県総合庁舎前バス停に向かった。 国道に出ると行く手に天狗倉山が見えた。 山は小さいがピンと尖がった姿が良い。 |
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尾鷲から相賀までの移動に利用したバスは、三重交通が熊野市から松坂まで、伊勢路沿いに運行している急行便だった。 総合庁舎前から走り出すとまもなく山間に入った。 馬越峠の下をトンネルで抜けるとまもなく銚子川に架かる橋を渡り、すぐに紀北町三山(三交相賀)に着いた。 |
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バス停から国道の反対側に渡り、尾鷲に向かって歩き出すとすぐ見覚えのある街角が見えてきた。 昨年の秋、バシャバシャ雨が降る中を半ばやけくそ気分で歩いてきて相賀駅に行ったときに通った所だ。 |
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家並みの間に入るとすぐ十字路がある。 この前は左折して相賀駅に向かったが今度は直進した。 角の筋向いは相賀神社の境内だった。 今回歩くルートの最初のランドマークだ。 正面の鳥居にまわり、神前に上がって前途の無事を祈った。 |
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相賀神社のすぐ先に寺がある。 真興寺という寺名は真田の復興を願った名だという。 |
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本堂の脇に "ハマグリ石" という珍しい形の石があった。 もとは、中世末から近世の熊野詣や三十三所巡礼の道しるべとして街道脇にあったのだが、堤防工事のために施主の寺縁であるこの寺に移されたのだそうだ。 石に浮き彫りされた仏像(観世音菩薩)は巡礼で亡くなった人たちをほ弔うものという。 |
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寺の先で銚子川の川縁に出たところを右折し、国道を渡って山と川の境を通っている旧道に入った。 銚子川はすぐ先で海に注ぎ込んでいるのだから最下流にあたるのだが綺麗に澄んだ水が流れていた。 僅か進むと赤塗りの便ノ山橋が見えてきた。 橋の袂に馬越峠への入り口であることを示す道標が立っている。 |
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橋を渡った先から右に入った。 事前に手に入れた資料に、近年発掘された古道の石畳が近くにあると記されていたのでそれを実見するためである。 人家の庭先から藪っぽい伐採あとを横切って行くと杉林の縁に石畳があった。 石畳が紀勢線の切通しの縁から山の方に向かって延びている。 線路の向こう側の川には昔、渡舟場か橋があったに違いないのだが今は何の痕跡も見えない。 草生す石畳を登り、最後は藪の間の踏跡を登りあげて国道に上がった。 |
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国道にでて西に100m ほど進んだ所に馬越峠の入り口があった。 |
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入り口でひと休みしたあと峠に向かった。 はじめは最近整備された新しい道だがひと登りすると古道の石畳に変わる。 国内最高の降水量をもたらす紀伊の豪雨に耐える道を維持するために骨身を惜しまなかった丁寧な仕事の形跡が見て取れる石畳だった。 昔の旅の標準装備は草鞋だったから快適に歩けたに違いないのだが、現代の我々が履いている山靴のゴム底は必ずしも相性が良くない。 土道と違い、ツルンと足を取られて下手に転ぶと、思わぬ怪我をすることがある。 要注意だった。 |
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ひと登りしたところに一里塚があった。 杉林の中で目立たないが注意してみると土盛りがしてあるのが分る。 石積みも上に乗せてある。 |
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一里塚から僅かで林道を横切った。 |
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林道からさらにもうひと登りで峠に着いた。 さして広くもない鞍部だが小さい休憩小屋、数基の野外ベンチと句碑がある。 句碑は江戸時代末期の俳人 可涼園桃乙のもので、夜桜見物の際に読まれた句 "夜は花の上に音あり山の水" が刻まれている。 時間は早いし全員元気だったので天狗倉山に登ることにした。 |
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馬越峠から天狗倉山頂上までは、水平距離600m ほどで150m 強の高度を稼ぐ。 ごくまともな登山道で、部分的にはかなり急な所もあった。 緩急を繰り返して登ってゆくと頭の上に大岩が見えてきた。 最後の急登を抜けると頂上の巨大な岩塊の狭間に着いた。 右手の大岩に架かっている鉄梯子を登り上げた所が頂上で、山裏の相賀側が一望だった。 頂上の雰囲気は、奥秩父の瑞牆山そっくりだった。 梯子を降りて向い側の岩に上がると目の下に尾鷲の町と港が手に取るようだった。 海寄りに立っている巨大な煙突が目を引いた。 |
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巨岩の間にはレンガ作りの祠があった。 横に立つ説明板に役の行者に因む由緒が記されていた。 役の行者の事跡には全国各地の山岳で出遭う。 超人とは言い条、たったひとりで広範囲な山域を高い密度でカバーできたとは考えられない。 役の行者ひとりだけ仕業でなく、開祖の盟友、門弟など一群の山岳修行者の活動の軌跡を示すものと理解するのが理に適っている、と思う。 |
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峠の鞍部に戻り、少々の飲み食いをしたあと、尾鷲に向かった。 下降路も丁寧に敷き詰められた石畳になっている。 道のまわりは暖地林で、大部分が常緑樹だ。 ちょうど葉の生え変わりの時季にあたっているせいか落ち葉が多い。 足場の悪い所が落ち葉に隠れている可能性もあるので要注意だった。 |
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あらかた山を下ってまわりの傾斜が緩んできた所にさくら地蔵があった。 |
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山から出掛かるところに行者堂があった。 行者堂の左脇の鳥居は不動の滝に通じている道の入り口だ。 全国各地にある滝行場のひとつだ。 |
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山麓の集落にかかる所に野口雨情の詩碑があった。 "鰤は港に 杉桧は山に 紀伊の尾鷲はよいところ" という尾鷲小唄の文句が刻まれている。 (鰤=カマス) このあたりは海に近くでありながら奥武蔵か秩父の山里のような雰囲気が漂っていた。 |
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この町の墓場がすべて集まっているのではと思うほど大きな墓場を通り過ぎて家並みの間に入った。 道の両側の民家は古びているが荒廃の色はなく、落ち着いた暮らしをしている様子だった。 |
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山を降り切って北川橋の向い側に出た所を右手に折れると金剛寺の堂々とした山門があった。 寺の隣は尾鷲神社で、鳥居があった。 |
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今日の無事に対する感謝と、前途の安全を祈るため尾鷲神社の本殿に参詣した。 礼拝を終えて戻ろうとした時、太鼓が鳴りだし祈祷が始まった。 立ち止まって聞いていると祈祷の声と太鼓の音とが徐々に高まり、おしまいには鳴動する太鼓の音とそれにも勝る大音声の祈祷があたりに響き渡るようになった。 神に祈ると言うより願い事を聞き入れてくれぇーっ!、と脅しているのではないか、とさえ思えるような祈祷だった。 |
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神社の境内から出て交差点を渡り、銭湯の前を過ぎると泊まり場は近い。 リーズナブルなレートのビジネスホテルで、部屋によっては蚊が出たりゴギブリが出たりしたが山歩きの足溜まりとしては十分だった。 |
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☆おわりに 峠道の丁寧な石積みに昔の職人の心意気、物作り日本の原点、を感じた。 天狗倉山は標高僅か510m 台の低山ながら、奥秩父瑞牆山を彷彿させる巨岩の頂上をもつ、素晴らしい展望峰だった。 昨年10月に阿曽から相賀まで歩いて以来半年ぶりだったがメンバーの足並みはよく揃っていて何も問題なかった。 メンバー各自の日頃の努力が想像された。 |
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