西上州外縁部、牛伏山 (2006.9.3)
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☆期日/山行形式: 2006.9.3 単独ついで登山
☆地形図(2万5千分1): 上野吉井(長野3号-2)
☆まえがき
育ち故郷の中学校の古希記念同窓会に参加した機会に郷土の山、牛伏山に登った。
西上州の外縁部にある、標高490.5m の低山だが小学校の遠足で登ったときに見た、関東平野の展望が記憶に残っている。
遠くからわざわざ登りにゆくほどもない山ではあるが、山麓に泊まる機会を生かして60年ぶりに登り、昔と変わらぬ広大な展望を楽しんだ。
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牛伏山頂上の展望 (クリックすると拡大します)
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☆行動記録とルートの状況
<タイム記録>
牛伏山ドリームセンター(8:50)-登山口(9:08)-700m 道標(9:16)-急な階段(9:46)-句碑(9:56)-頂上(10:05)-鐘楼(10:10/25)-700m 道標(10:47)-登山口(10:55)-
牛伏山ドリームセンター(11:30/12:10)=(Taxi)=仁叟寺(12:20/30)-法林寺(12:40/50)-(13:00)吉井駅[13:07]=高崎=籠原=渋谷=宮崎台
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宴会と宿泊は牛伏山ドリームセンターだった。
町外れのごみ焼却場の廃熱を利用した浴場のある町営の宿泊施設で、特段の事もないが、すぐ下の谷地の池のまわりの園地と、その先に立っている牛伏山とが借景になって、結構な雰囲気がある。
できて20年も経つそうだがその割には手入れが良く、小奇麗だった。
久し振りに再会した七十のジジババ達だったが、子供時代に帰って楽しい話をした。
翌朝は遅めの朝食が終わって暫くで解散になった。
大半は近在に住んでおり、それぞれ帰って行くのをあらかた見送ったあとひとりで山に向かった。
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建物の横手の坂を下って池の脇を通って、向かい側の車道に上がり、正面の谷に入ってゆくと右側に遊歩道の入口があった。
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はじめは杉林の中の砂利の林道を歩く。
杉林を出たところにある蝋梅林の先で車道が終わる。
左に向かって沢溝を渡る橋が架かっていて、その袂に頂上まで700m と記した道標が立っていた。
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道標の先は幅広の歩道が続く。
左手に向かって斜上して行って尾根を一本乗越し、もうひとつ先の尾根の背に上がってひと登りした所に野外ベンチの休み場がある。(左)
その先、かなり急な擬似木階段の登りが続く。
もし階段がなかったら固定ロープでもついてないと登り難いだろうと思うくらいの傾斜がある。
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急登が終わると左に折れ曲る。
ごく緩やかな道を進んで行くと道の脇に、句碑や歌碑が立っている。 |
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間もなく山の横手を回ってきた車道終点の広場に出る。
すぐ上は東屋、鐘楼、金毘羅神社などのある園地になっている。
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鐘楼は一階部分が畳敷きの休憩室になっていて水道の蛇口まで備わっている。
食料・寝袋などを持ってくれば快適に泊まれそうだ。
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鐘楼の後ろに金毘羅神社の社殿がある。
その脇から裏側に立つテレビ中継アンテナの横を通り抜けて行くと、大石の上に牛伏山頂上と刻んだ石標が置いてある。
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頂上の脇に井戸ポンプと水槽があった。
鐘楼下の蛇口や公衆トイレの水源になっている井戸だが山の頂上にある井戸は珍しいと思った。
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(クリックすると拡大します) |
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鐘楼下の畳部屋の縁に腰掛けて暫く休憩したあと来た道を戻った。
上部の急な所も下りなら早い。
すぐに穏やかな下り坂となってノンビリ歩き、ドリームセンター裏の池の端に降り着いた。
睡蓮の花が咲いていた。
白とピンクと二種類、それぞれ綺麗だった。
ドリームセンターで入浴して汗を流したあと着替え、タクシーを呼んで町の近くにある仁叟寺に行った。
500年の歴史がある大きな禅寺で、江戸時代の惣門、山門、鐘楼などが残っていた。
事業に成功した檀家の寄進で色々な造作が行われていた。 |
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今は俗っぽい雰囲気を漂わせている新しい部分も、時代が変われば落ち着いてくるのだろう。
この寺から歩いて10分ほどの所に母の墓がある。店が閉まっていて花も線香も上げられず、掛け水だけの墓参をした。
子供時代に走り回った町並みを通って駅まで歩いた。
どこの田舎町に行ってもそうだが、この頃は通りに人気がなく、子供の声が聞こえないのが寂しい。
駅の手前にある小学校を覗いてみた。
昔とおなじ楠の大木の立つ校庭で少年野球のチームが練習していた。
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☆おわりに
約60年ぶりに故郷の山に登った。
昔は何もない山だったが、頂上近くまで車で上がれる車道が開かれ、頂上付近が園地になっていた。
その激変には驚いたが、頂上からの眺めは昔と同じ、半世紀を越して同じ展望に接することができ、嬉しかった。
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