日光禅頂行者道、明智平-茶ノ木平-薬師岳-古峰原
(2005.6.11-12)



☆期日/山行形式:
2005.6.11-12 前夜泊 単独

☆地形図(2万5千分1): 日光南部(日光号8-4)、古峰原(宇都宮5号-3)

☆まえがき
    5月の山行で、昨年春からの大峰奥駈道のトレースが、あらかた終わった。
楽しかった山行の記録を纏めたりしながら、暫くの間、その余韻を楽しんでいたが、幾らか落ち着いてくると、手近な日光の行者道にまだ歩いていない部分が残っていたのが気に掛かるようになった。
中禅寺湖の南東部に臨む茶ノ木平から細尾峠を経て、薬師岳、三ッ目(夕日岳)、地蔵岳、ハガタテ平から古峰原高原を経て、横根山、勝雲山あたりを繋ぐ尾根筋にある修験道の行者道だ。
とりわけ、ハガタテ平以北の部分は、西暦780年代に勝道上人が奥日光に入った道筋にあたり、禅頂行者道とも呼ばれている。
大峰とさして変わらない長い歴史のある行者道であるから、是非とも早い時期に歩いてみたいと思った。

  5月から6月に掛けては、色々な予定があって山行の準備ができなかったがそれらもあらかた片付き、サテという時期になったら、梅雨の走りがきて雨勝ちとなった。
前夜泊、一日で歩ききれるルートだからと晴れ間を待っているうちに、今年最初の台風の接近があり、気象庁から梅雨入り宣言が出てしまった。
茶ノ木平観瀑台付近からの日光連山(男体山、大真名小山、女峰山、赤薙山) (クリックで拡大します)
   山は天気の良い日に楽しく歩きたいものだが、年寄り山屋には、チョッと山行間隔が開きすぎるとすぐに足腰が弱って気持ちよく山を歩けない身体になったしまうという不都合がある。
いつまでも天気待ちをしている訳には行かないので、降られることを覚悟の山行に出ることにした。
ただ、梅雨寒の雨の尾根道を歩くのは辛いから、もし雨に遭ったら近くの高原に転進し、傘をさして歩いて帰ろうという、サブプラン付きの計画にする。

  前夜泊の泊まり場としては、臨機に行き先を変更するのに都合の良い下今市駅近くの安ホテルを選び、台風が通り過ぎた直後に晴れ間が来ると期待、それにタイミングを合わせて予約を入れた。
今市に行く日もどこかの山に立ち寄りたい所だが雨になることは避けられないからあまり欲張らず、以前から気に掛っていた、日光杉並木を歩いてみようと考えた。

   二日目の天気がそこそこになったら、一番電車で日光へ行き、バスで明智平(1280)まで上がって歩き出し、茶ノ木平付近で稜線(1615)に到達したあと、尾根を伝わって細尾峠(1192.9)へ。
引き続き峠の南の薬師岳(1420.1)に登頂したあと、さらに三ッ目(1485)から夕日岳(1526.1)を往復。
地蔵岳(1483)からハガタテ平(1281)を経て古峰原(1144)に下山したあと、バスで新鹿沼に出て北千住経由で帰る。
もし雨になったら朝早く新鹿沼まで戻ってバスに乗り継ぎ、古峰神社(685)から古峰原高原(1144)に上がり、勝道上人修行の深山巴ノ宿(1130)、天狗ノ庭(1350)、三枚石(1375)などを回って帰るサブプランにスイッチする計画だった。


☆行動記録とルートの状況
月11日
<タイムレコード>

    宮崎台[11:16]=表参道=北千住[12:31]=[13:57]新鹿沼[14:12]=[14:28]明神(14:30)-十石坂(15:40)-公園(16:20/30)-(17:00)下今市{ビジネスホテル泊}

◆ 本州南岸沿いまで北上した梅雨前線が沖合いを通過する台風に刺激されて、十中八九雨と予想していたが、実際はそれほどにはならず、曇り時々雨程度になった。
下今市のひとつ手前の明神駅で電車を降り、東京方向に少し戻った所で左折、東に向かって1Km ほど歩くと角に福生寺というこじんまりした寺のある十字路に着く。
小さく地味な寺だが歴史は
古いようで、元和11年(1616) に自害した東照宮造営副奉行本田正盛の墓がある。
  寺の西、200m ほどの所から旧例幣使街道の杉並木が始まった。
掘り下げられた片側一車線の幅の舗装路で、歩道はない。(下左)
たまたま手に入った明治時代の写真(下右)と比べてみたら土の路面がアスファルトに、両側の土手が石積みに変わっただけで、道幅は昔と同じだということが分かった。( 注1)

  道が狭い割には車の行き来きは頻繁で、時々歩いている脇ですれ違う。
冷や冷やもので、気分が良くない。  特に大型車がすれ違う時は、身の危険を感じた。

  並木道の外側にバイパス道路を設けて車の進入を禁止し、この貴重な歴史遺産を長く保存すべきではないかと思った。

注1: ハーバート・P・ポンディング、長岡祥三訳 英国人写真家の見た明治日本 講談社学術文庫、2005.5.10 ISBN4-06-159710-8

    歩き始めから約3Km ほどの所にある十石坂を越し、その先の坂を下り切ると幾らか道幅が広がる。
さらに今市市街に近づくと並木に沿って歩道が断続するようになる。
JR線の踏切を渡ってすぐの所に公園があった。
公園の中の東屋の屋根の下に入り、明神駅から歩き続けた疲れを癒した。
公園から少し行った信号のある角で右手を見ると、すぐ近くまで旧日光街道の杉並木が接近してきていた。

  大した距離はなさそうだし、そちらの様子も見たかったので行ってみた。
杉並木の間の2車線と外側の2車線と、幅が広く、その分さらに多くの車が走っていた。
並木に沿った歩道を10分足らずでふたつの街道の合流点に着いた。
鋭角に交わる道の角には追分地蔵があったが、予約したホテルはそのすぐ近くの筋向いだった。
このホテルは、小規模な個人経営のビジネスホテルで、なんとなく昔の人足宿か何かが模様替えして営業を続けているような雰囲気だった。

  宛がわれた部屋は一階廊下の突き当たりで早発ちに都合の良い場所だった。
部屋に荷物を置くとすぐに外に出た。
下車した明神駅が無人だったため、下今市駅に行って運賃の清算をする必要があったし、町の様子を見ながら適当な場所で夕食を食べようとも思った。

  商店街の寂れ方はかなりのもので、大部分の店がシャッターを閉ざしている。
会津西街道の分岐点の手前を東に入った所に "報徳二宮神社" があった。
ささやかな社殿の後側に回ると土饅頭の墓があり、その脇に石碑が立っていた。
二宮尊徳は小田原領の人だが、1853年に日光御神領再興を命じられてこの地に赴任し、1856年今市で没した。

  神社を見たあと、適当に道を選んで駅に行き、清算を済ませた。
商店街や駅前通に蕎麦屋の看板が目立つ。
隣の日光は "湯葉" だがこの町は蕎麦を売り物にしているようだ。
一番手近な駅前通りの蕎麦屋に入った。
カツ丼蕎麦セットを注文したら、ツルッとして腰の強い蕎麦が出てきて美味しかった。
蕎麦は全部、カツ丼は食べられるだけ食べて宿に戻った。

  部屋のテレビを点けてみたら野球の実況をしていたが、少し経つと中断し、ニュースと天気予報を放送した。
予報は、明日は晴れという嬉しい知らせで、目論見通り禅頂行者道を歩けそうになった。

翌朝の早起きに備え、睡眠薬を飲んで早寝した。


                                                                                                        ページ先頭
月12日
<タイムレコード>

    下今市[5:58]=[6:09]東武日光[6:13]=[6:42]明智平(6:55)-展望台駅(7:10)-送電線鉄塔広場(7:25/35)-稜線(8:15)-送電線鉄塔広場(8:55/9:05)-細尾峠(9:30)-小休止(9:50/10:05)-薬師岳肩(10:30)-薬師岳(10:35/45)-小休止(11:25/35)-三ッ目(12:10/20)-地蔵岳(12:35)-ハガタテ平(12:55/13:05)-(14:50)古峰原[15:50]=[16:37]新鹿沼[16:49]=[18:02]北千住=宮崎台


◆ 一番電車で東武日光駅に行った。
  一部に薄雲が残ってはいるが空模様は至極落ち着いている。
うまい具合に梅雨の晴れ間を引き当てたことは間違いなさそうだ。


  日曜日の早朝の仕事に出てきた僅かな人達に混じって改札口を出る。
駅前のバスターミナルのベンチの前にテントが二張りあった。
脇に自転車が置いてある所を見ると、ツーリングの若者達のようだった。
若い時分、あちこちの駅で米軍放出の寝袋に潜って泊まったことを思い出した。
乗り場のベンチに老ハイカーが一人座っていた。
一番バスが発車したときの乗客はこの老人と二人だけ。
前のほうの座席に座って話をしながら山に向かう。
大阪から男体山に登りにきたのだと言う。
好天にめぐり合わせて嬉しそうにニコニコしていた。
七十台半ばは越していると見受けたが元気なものだ。

   二荒神社を過ぎたあたりで日本人妻と女の子を連れた外人が乗り込んできた。
どこかにハイキングするらしい身支度をしている。

  明智平で下車。
広場の隅にある登山道入口に行ったら鎖が張り渡され、立ち入り禁止の看板が下がっていた。(左)
ここから入らなければ山に上がれないので、マァいいや、と鎖を跨いで山道に入ってみたら別段どうという事もない良い道だった。
  ロープウエイの駅まではひと登りだったが駅舎のドアがロックされていて上の道に上がれない。
柵の下を踏跡に従ってトラバースし、トイレの手前で柵を乗り越して茶の木平への山道に上がった。
  笹の林床を覆う新緑の林の中の尾根道(左)を緩やかに登ってゆくと、送電線鉄塔の周りが切り開かれている所に出た。
正面に男体山、その左手に中禅寺湖と奥白根の連山。
夏至に近く、強い日の光に照らされて山の新緑が眩しい。

  さらに進んで尾根上のこぶをふたつ越すと、茶ノ木平の稜線は近い。
群落を形成しているシロヤシオの花が最盛期だ。
若葉混りで咲いている白花はとても清楚な感じがある。
愛子内親王のお印と聞いたが、山歩きを楽しむ皇太子ご夫妻が選んだに違いない。
  尾根の背から僅か北側に外れた所に柵囲いの展望台があった。
そこを過ぎるとすぐに傾斜が緩み、やがて茶ノ木平の一角に道標が立つ三又路に着いた。(左)

左へ進むとガクンと道幅が狭まる。
所々が笹に覆われ、道というより、むしろ踏跡と言ったほうがよい位の状態だ。

  暫くは緩やかな下降が続くが篭石から急降下になる。
  そこは修験道の祈祷所になっているようで、並んでいる大石の上に不動明王像(?)が安置されていた。(左)

  下降路が尾根の背を外れて右手の山腹に入った。
なぜ回り道をするのか、首をかしげながら降りて行くと水が滲み出している窪地の上を通った。
日光山域は火山性のため、尾根上で水が得られる場所がほとんどないという特徴があるから、ここは貴重な水場だ。
  また尾根の背に戻って下降を続けていると古い道標があった。(左)
木質は朽ち始めているが赤ペイントでなぞって見やすくした文字は "細尾峠-茶ノ木平" と読めた。

  そのすぐ先に送電線鉄塔があってまわりの林が切り開かれていた。
足尾の発電所から日光の精錬所に送電するためのもののように思われた。

  この先は緩やかな尾根になり、時々僅かに登るほどとなる。
二番目の送電線鉄塔を過ぎ、草木ダムの雨量観測所を過ぎるとすぐに細尾峠に降り立った。
  日光清滝から足尾に通じている舗装路が乗り越えているが、足尾方面への入口には、崩壊箇所や落石の危険があるので注意するよう警告を記した看板が置いてある。(左)

  道路を挟んで立っている大きな道標に導かれて薬師岳に向かう。
峠の南側の道は格段に手入れが良く、歩く人の数も多いようだ。
しかし、尾根は痩せて細く、大きな崩壊を避けて裏側を巻く所もあった。

  近づいてきた薬師岳の頂上が、頭の上にのしかかるような感じになった所で尾根の背を外れ、西側の山腹を斜上して行くようになる。
暫く進んで小尾根の背に上がり、左に折れてさらに登高を続けて行くとやがて、左のように"薬師岳肩" と記した道標が立つ三又路に出た。
右に行けば地蔵岳方面だが、まず薬師岳に登頂しようと左に進んだ。

  僅か5分あまりで到達した頂上は左下のようになっていて潅木の梢越しに日光方面を眺めることができた。

  暫くの間、誰も居ない頂上で、静かな休息を楽しんだ。  
日曜日だというのにこれまで誰にも遭っていないのはこちらの早出のせいか?

  上昇気流で雲が増えてきたが雲行きは落ち着いていて、にわか雨などに遭う心配もほとんどなさそうだが、ひとつだけ問題なのは、目覚ましに飲んだコーヒのせいで胃袋の調子が狂い、吐き気がすることだ。

  イオン入りレモンジュースでミニパックのおつまみを少し齧ってみたがとてもエネルギー源になるほどは入らない。
総量で約2リッター担いでいる飲料を頼りに歩くしかなさそうだ。

  調子はもうひとつなりに身体が休まったのでもとの道標に戻り、その先に進んだ。

  暫く行くと笹の中に石祠があった。
脇の立ち木には、祈祷の木札が数枚、取り付けてある。

  最も新しいのには平成八年と記してある。
大峰に比べれば格段に少ないのだろうが今でも行者が歩いているようだ。
  茶ノ木平付近はシロヤシオが多かったが峠のこちら側では次第にアケボノツツジが増えてくる。
赤い花が新緑の林の中に鮮やかに浮き出している。

  三ツ目との中間点あたりで小休止。
相変わらず調子がよくないのだが、道が良くて急登降がないので助かる。

  三ツ目が近づき、ちょっとした露岩を登っている所で始めて人に遭った。
ランニング登山の軽快スタイルだった。
  さらにもう一段、緩やかに登って三ツ目に着いた。
あまり頂上らしい場所ではないが夕日岳への入口を示す道標が立っている。(左)
広場の一角には散り敷かれたシロヤシオの花絨毯ができている。

夕日岳は好展望のピークのようだが、霧が出て視界がなくなっているし、体調も良くないから頂上往復は中止にし、暫く休憩した。

  最後のピーク、地蔵岳に進み始めるとすぐに熟年ハイカーとすれ違った。
これで二人目だがなんとなく人の気配を感じるようになった。

  このあたりになると古峰ヶ原から登ってくるハイキングのエリヤになるようで、道も一段としっかり踏み固められている。

  緩やかにひと登りすると林の向こうに地蔵岳頂上が見えてきた。
アケボノツツジの間に人影が見える。
近づいてみると20人近くのオジサンオバサンのパーティだった。
頂上の祠と三角点標石の写真を撮っただけで小さくなって脇を通り過ぎた。

  草の林床とアケボノツツジが美しい唐松林の尾根を少し進んだ所から急降下が始まる。
大きくジグザグを繰り返して高度を下げたあと、崩壊気味の沢溝を、虎ロープの助けを借りて渡り、尾根の上に乗った。

  この部分はこの日のルート上では唯一の要注意箇所だった。(左)
  傾斜が緩んだ尾根をひと下りでハガタテ平に着いた。(左)
樹木に覆われた広い鞍部で、爽やかな風が吹きぬけ、格好の休憩場所になっている。

  ここまでで今日のルートはほぼ終了、あとは沢道を歩いて古峰ヶ原に下るだけになった。
調子は良くなかったが時間的には順調に歩いて来られた。
腹具合も幾らか良くなってはきたがまだ大した物は食べられない。
  沢道に入って30分ほど下ると枝沢を渡る所があった。
顔や腕の汗を濯ぎ、喉を潤す。

  壊れかかった砂防堰堤を渡ると道幅が広がる。
大雪の重みでか、多くの杉が折れている所を通り過ぎると間もなく広い駐車広場に出た。

  出口脇の木の根方に "これより登山" と刻んだ石柱が立てかけられ、向かい側の木の幹に何枚かの祈祷札が取り付けてあった。
古峰ヶ原から山に入ってゆく行者の入口になっているらしい。
  この広場から古峰ヶ原バス停までは予想以上に遠く、意外に時間が掛かった。
杉林の中を砂利の林道がクネクネとどこまでも続いている。
尾根の裏側にある射撃場の音は、着実に近づいて来るのだがそれ以外の人の気配が伝わってこない。
いくらなんでも、と思い出した時期に沢を渡る橋があり、その先に回んでゆくと道が二股に分岐していた。
  左手に下ってゆく道はゲートが閉ざされているように見えたので右手に上がって行くとまもなく舗装路に出た。
左手に折れて下流に向かう。
道の左下は園地になっているようで、綺麗に整備された広場や石塔が見える。
園地入口のゲートの前を過ぎ、右に回ってゆくと広い駐車場の横に出て、そのすぐ下が古峯神社の門前町だった。
お店の人に場所を教わってバス停に行き、時刻表を見ると次の便まで丁度一時間程の時間がある。
並んでいるお店の一軒に入って、蕎麦を注文した。

    ナメコと鶏肉と山菜と、色々入っているデラックス蕎麦だったが汁はともかく蕎麦は半分ほどしか食べられなかった。  無理に食べて下痢をしたら元も子もないので途中で止めた。
まだ時間があるので裏手のトイレに行った。
食べ物が入らないのでジュース類ばかり飲んでいたせいか、かなり大量の汗を掻いていたが濡れタオルで身体を拭いたあとで乾いたシャツに着替えたらサッパリした。

  家への手土産に名物の天狗饅頭を買ってパッキングをやり直し、バス停に行くと15:50発のバスが来ていた。
発車したときの乗客は地元の娘さんと二人だけ、途中で2、3人乗ってきたが日曜日でもこの位しか客がないならばとても黒字にはならないだろう。
出発点から5Km近くで大きな鳥居の下を潜った。
これまで見た中でこれに匹敵する大きさの鳥居は、九段の靖国神社と熊野本宮の河原に立っている物位しかないと思った。
それらは有名な神社の神域にあってなるほどと思った程度だったが、ここのは、奥に古峯神社があるとはいえ、一見どうという事もない山間の集落の中にドカンと立っている訳で、際立った異彩を放っている。

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☆あとがき
    幸運にも梅雨の晴れ間に恵まれ、楽しく禅頂行者道を歩くことができた。
山が綺麗で静かなのが良かった。
大峰も日光も、そして出羽三山も、修験道の行者道のある山はいずれも "少々骨が折れるが風格があって綺麗な山" という点で共通していることに気が着いた。
古代、山岳宗教を開いたパイオニア達の山(自然)に対する見識が感じられる。

それにしても、このあたりは、地味だが面白そうな山域だと思った。
丹沢や中央沿線の比べるとちょっと遠目だが、交通の便はそれほど悪くはない。
これから時々訪ねてみようと思っている。