奥武蔵、高麗-日和田山-物見山-横手(2005.12.28) |
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☆期日/山行形式: 2005.12.28 単独日帰り ☆地形図(2万5千分1): 飯能(東京9号-1) ☆まえがき 厳寒続きで家に閉じ篭り勝ちになってこわばって来た足腰を解すため、奥武蔵へミニハイクに行ってみた。 50年あまりも昔、正丸峠あたりに行った記憶はあるが、それ以来一度も足を向けたことのない空白地帯だ。 この山域へのデビュー山行だから、まずは入門編と、最も手軽な日和田山を選んだ。 行動計画もごくおとなしい定番プランで、高麗駅(110)を起点に、日和田山登山口(115)から日和田山(305.1)に登頂したあと、高指山(335)から物見山(375.4)への尾根筋を歩き、小瀬名下降点(350)から五常ノ滝(205)へ下山。 武蔵横手駅(105)から帰るという設定だ。 気軽に出かけたミニハイクだったが、日和田山の男坂ではちょっとした岩尾根登りができたり、金毘羅神社前や駒高では、丹沢と富士山、奥多摩から有馬山、武甲山、あるいは筑波山などの展望を楽しんだりなど、期待以上に楽しい山歩きができた。 |
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日和田山金毘羅社殿前から眺めた富士山、右手は大岳山 |
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☆行動記録とルートの状況 <タイムレコード> 宮崎台[6:51]=渋谷=池袋[7:37]=(急行)=飯能=[8:57]高麗駅(9:05)-日和田山登山口(9:20/30)-金毘羅神社前(9:55/10:15)-日和田山(10:20/25)-高指山(10:40/45)-駒高(10:55/11:00)-物見山(11:15/20)-小瀬名下降点(11:30)-五常ノ滝(12:05/10)-(12:35)武蔵横手駅[12:47]=東飯能=拝島=立川=武蔵溝ノ口=[15:11]宮崎台 ◆ 多摩川の西に住む者にとって奥武蔵は東京の向こう側になる。 少々遠いなぁ、という感じもあったが、少し調べてみたら交通の便が良く、家を出てから2時間あまりで登山口の高麗駅に着けることが分かった。 暮が押し詰まる寸前、日本海北部を通過する低気圧の前面に入って冬型気圧配置が一時的に緩むタイミングを狙って山行日を設定した。 |
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渋谷、池袋、飯能と乗り継いでアプローチ。 高麗の駅前広場に出ると抜けるような青空が広がっていた。 朝鮮渡来民のコロニーがあったと言われ、駅前広場には "天下大将軍" "地下女将軍" と記した赤塗りの柱が立っている。 広場の端に立っている案内看板のガイドマップと地形図、ルート案内図を照合して方角を確かめたあと歩き出した。 |
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踏切を渡り、国道を横切る交差点に出ると、前方を歩いている数人のハイカーが見えた。 こちらは毎日が日曜日のため、天気がよければいつでもと言う感じで出歩いているのだが、年の瀬のウイークデイでもハイキングに出掛けてくる暇人は結構いるようだ。 台集落の高札場のあたりまで行くと行く手に日和田山が見えてきた。 12月中旬から厳冬なみの寒い日が続いているが、この朝だけは殆んど無風で寒さを感じない。 |
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要所に立つ標柱に導かれて進んで行くと前方の山裾に登山口が見えてきた。 登山道整備の工事が行われているようで、入口には道の一部が通行止めになっていることを示す地図が掲示されていた。 道端で足拵えをし、ザックを整えたあと山に入った。 濶葉樹の中を登ってゆくと犬の散歩の帰りらしい家族連れと出遭った。 ひと登りして尾根に乗り、小さなコブを越した所に鳥居が立っていた。(下左) "金毘羅神宮" と記した額が掛けられた鳥居の下を潜るとすぐ先で道が二手に分かれる。 右は女坂、左は男坂になる。(下右) |
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分岐を左に入って5分足らず山腹をトラバースして行くと水場があった。(左) 量は少ないがパイプから清冽な水が流れ出している。 |
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水場の背後から岩の階段を登って尾根の上に出ると男坂の岩尾根になる。(左) 傾斜が緩く、手掛かり足掛かりも潤沢だが、岩場だからそれなりに両手を使う必要があるし余所見をしながら登る訳には行かない。 20分ほど登ると傾斜が緩んで岩場が終わり、丸太の鳥居が立っていた。 登って来た方を振りると下の方に "巾着田" が一見してそれとわかる形に広がっていた。(下) 巾着田の右手の山の彼方に、富士山が七合目辺りから上の姿を見せていた。 その手前右の方に奥多摩の大岳山、蕎麦粒山、三ッドッケから有馬山あたりまでの山並みが連なっていた。(冒頭パノラマ) さらに巾着田の左手遠くには丹沢山塊がスカイラインを描き、その左横に大山の整った三角形が綺麗だった。 |
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男坂の岩尾根から抜け出した鳥居の脇からは巾着田が一望だ |
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鳥居の袂で写真を撮ったり、ジュースを飲んだり、居合わせたおばちゃん3人組と駄弁ったりしながら休憩。 鳥居に後の岩頭に立っていた石碑には、"武尊岳" と "御岳山" の文字が見え、この山も山岳信仰と繋がっていることが窺われた。 石碑の後の金毘羅神社社殿の裏から尾根に上がって10分たらずで日和田山の頂上に着く。(左) 樹木に囲まれた頂上広場には大きな宝匡印塔と山名標柱が立っている。 東北方向だけは木が伐られ、平野の彼方に筑波山と思われる山影が見えた。(下) |
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日和田山頂上からは筑波山が見えた |
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頂上の肩に戻って北の方に向かう。 次の高指山は頂上に大きなアンテナ鉄塔が立っている。 桧林の間の山道を進んで舗装車道に出た所で折り返し、坂を登って行くと二基のアンテナの間の柵に突き当たってストップ。 戻りかけた道の一段下に平坦な草原があり、2基のベンチが置いてあった。 良い休み場だが桧林のせいで展望が得られないのが残念だ。 高指山から先は左のような舗装車道歩きになる。 |
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駒高集落が近付いたところで振り返ると今降りてきた頂上のアンテナが桧林の上に頭を出していた。 |
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駒高は谷向かいに奥多摩や富士山の展望と向き合った山中の別天地だ。 道端に茶店があったが季節外れのせいか、シャッターが下ろされていた。 道の斜め向かい側にトイレがあったのでそれを利用したりして小休止。 |
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集落の外れに物見山の入口があった。 |
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桧林の間を僅か進んだ所に頂上があった。 南面の樹木が伐られ、視界が広がっている |
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物見山頂上の奥手に立っている標柱の指示に従って桧林の間の道を進んで行くと10分ほどで小瀬名・五常の滝への下降点を示す標柱に着く。 左手に斜降して行く道に入ると薄暗い杉林の中に入る。 |
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暗い林の中に大きな馬頭観音碑が立っていた。 かつて馬の背に乗せられてさまざまな物資が運ばれていたのだろう。 |
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石碑から僅かの所に小瀬名の小集落があった。 人家の下の道を歩いてゆくと上から犬に吼え掛けられた。 山畑の縁に出ると左手に視界が開け、富士山と再会した。 日が高くなるのと入れ違いに冷たい風が吹きだし、寒くなってきたが、畑の土手が風を遮り、絶好の陽だまりになっていた。 誰も歩いてこないのを幸い、狭い道に脇にザックを置いて腰を下ろし、景色の眺めながら飲み食いをした。 |
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良い休憩ができて気分良く下山に掛かった。 また杉林の中に入り、数回ジグザグを繰り返したら舗装道に出た。 道の曲がり具合から権現堂、中野集落のすぐ下だと思った。 武蔵横手駅へ向う道を5分あまり歩いた所で右手から車道が合わさる。 そのすぐ先でやや急な坂を下ったところが五常ノ滝入り口だった。 仁、義、礼、智、信を表すと言われる五常ノ滝で水を汲みながらひと休み。 |
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車道に戻って20分ほど歩くと国道に突き当たった。 角には、北向地蔵・鎌北湖と記した赤塗りの標柱が立っている。 |
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武蔵横手駅は曲り角から100m 足らずだった。(左) お昼時だから、蕎麦屋でもあったら食べたいと思って駅のまわりを見たがそれらしい看板が見えなかったので10分程後に来た電車に乗った。 八高線に乗り継いだ東飯能の駅ビルにも蕎麦屋はなかったが代わりにパスタレストランが見つかった。 拝島で青梅線に、さらに立川で南武線に乗り継いで帰った。 以前、奥多摩・奥秩父に足繁く通っていた頃に、よく利用していた路線ルートを久し振りに通って、懐かしかった。 |
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☆おわりに 一時、奥多摩・奥秩父には熱心に通った事があったが、奥武蔵・外秩父はその途中の通過地域くらいにしか考えなかったため、一度も足を踏み入れることがないままになっていた。 今回の山行では、この山域の一端と対面し、意外に手近な所に広大な未踏領域を残していたことに驚いた。 山が小さいから短時間で入下山でき、ルートの整備が行き届いているので冬から春に掛けての低山歩きのフィールドとしてうってつけだ。 ほかにも色々宿題があって、冬中此処ばかりと言う訳には行かないから、今後少なくとも4、5年の間は楽しめそうなフィールドが見つかったように思っている。 |
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