平泉 毛越寺から中尊寺、奥州藤原氏の遺跡群 (2020.7.30-31)
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☆期日/(天気)/山行形式: 2020年7月30-31日 一ノ関駅前ホテル1泊2日寺・遺跡巡り |
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☆7月30日(曇): 毛越寺を拝観したあと中尊寺へのトレイルを歩き、金色堂などを見て下山し
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平泉駅はコロナが来るまでは大賑わいだった筈ですが、この日はほかに降りた乗客が居たのかどうかというくらいの閑散で、改札から出た待合室は地元の老人が1人2人いただけでガラァーンとしていました。 |
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駅前から歩いてきた広い道路が左へ曲がってゆく所を直進すると毛越寺の山門で、拝観券売り場の木戸があります。 普通の寺の山門とは少々造りが違って武家屋敷風の長屋門です。 |
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境内に入ると広場の向かい側に巨大な本堂が立ち、その手前の広場の中ほどに大きな香炉が置かれていました。 ひと束 100円の線香を供えたあと本堂を拝観しました。 本尊は薬師如来だそうですが、まだ先が長いので堂内には入らず、入口の箱にコインを投げ入れ、亡きツレの冥福とこの旅の安全を祈って合掌しました。 |
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名残の睡蓮 (画像をクリックすると拡大) |
本堂の右脇から始まる境内順拝路に入るところの左側はぐ睡蓮池でした。 花の時期はとっくに過ぎていましたがわずかに散り遅れた一輪が、緑の葉の広がりに彩りを添えていました。 |
その先に進むと右側に広い花菖蒲畑が広がっていましたが花期はとっくに過ぎ、青い葉がまばらに立っているだけでした。 境内最奥部にある開山堂は古風なお堂で、山裾にひっそり佇んでいました。 |
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開山堂の前で右手に回り、山に向かって進んで行くと土を盛ったわずかな高みに嘉祥寺跡と墨書きした白い標柱が立っていました。 大きな礎石が並んでいて、古代の建物としては、とても大きなものだったことが分かります。 |
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池の対岸の山裾を進んで向かい側に本堂げ見えるようになった所に講堂跡、ついで大金堂圓隆寺跡の標柱が立っていました。 円融寺は、おそらくこの寺域で最も重要な建物だったと思われます。 宇治の平等院と同じように、池に面して左右両翼に回廊を延ばした平安様式の寺院でした。 なお、奥州藤原を攻め滅ぼした源頼朝は平泉のことを "この世の極楽浄土う" と言い、同じような様式の永福寺を鎌倉二階堂に建てたのだそうです。 |
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楓林から水が出ている (画像をクリックすると拡大) |
"遣水" の立て札が立っている所には、山裾の楓林から出て来た水が芝生の中をうねり流れていました。 紅葉の時期にはとても奇麗になり、古の雅な遊びの舞台になったと言うことです。 |
道端に咲いていたキキョウが印象的でした。 |
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常行堂は一対の石灯籠の奥の方にあって落ち着いた雰囲気を漂わせていました。 |
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大泉池の池中立石 (画像をクリックすると拡大) |
鐘楼の脇から池之端に出て、右手へ回ってゆくと池に張り出した半島状の州浜がありました。 更にその先へ進んで行くと池の中に細い石を押し立てた "池中立石" に対面する所に着きました。 1000年もの古人の雅な遊び心を今の世に伝えている象徴です。 |
池を回り終えて入口に戻り、ゲートの外に出たところで左折。 境内の柵に沿った道を北に向かって進むと中尊寺へのウオーキングルートの入口を示す案内板が立っていました。 |
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歩道は山裾を通っている用水路に沿っていて右側の水路の向こうは山林、左側は柵を隔てて毛越寺の境内でした。 |
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歩道に入って少し進んだ所に "遣水の取入口" と記された看板が立っていました。 |
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水路沿いの平坦な道を進んでゆくと舗装車道に出ました。 右側に人家があり、道路の向こう側を東北自動車道が通っています。 家の前の広場を通り過ぎて 50m ほど進んだ所にトレイルの続きの入口がありました。 |
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右手に向かって浅い谷溝に入り、山畑の奥から人工林の中を中緩やかに登って行くと静かな谷間の道になりました。 |
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所々に左のような熊脅しの木槌と叩き板が置いてありました。 毛越寺の木戸番のおばさんに "熊が出ますよー" と脅かされましたが嘘ではなかったようです。 試しに叩いてみたら、かなり力を入れて叩かなければ熊を脅かせるほどの音が出ませんでした。 熊が怖い人は力いっぱい叩かずにはいられないでしょう。 何年もの間、通りかかった人が力任せに叩いてきたせいか、板の表面が木目を境に剥がれ始めていました。 |
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谷の奥に分け入った所から谷詰めの斜面を斜上し、尾根の背に登りあげると舗装路に出合いました。 |
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車道に出た所で左折し、西に向かって進むと左手に小園地がありました。 園地の奥の方に東屋があり、そちらに入ってゆく道の脇に文字を刻んだ巨大な岩塊が置かれていました。 苔に覆われて判読し難くなっていましたが、脇に立っている立て札の説明によれば、これは加藤楸邨の句碑で "邯鄲や みちのおくなる 一挽歌" と言う句が刻まれているとこと。 平泉展望台と呼ばれている東屋まで行ってみましたが正面の樹木が生い茂り、遠くは見えませんでした。 |
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道路に戻って先に進むとごく緩やかな登りになりました。 僅か進んだ所の右側から山に上がってゆく歩道が分岐し、その入口に "中尊寺へ1360m" "ウオーキングトレイル 夢散策" と記した道標が立っていました。 |
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歩道は地形図に 150.1m の三角点が記入されている高み向かって登って行きましたが頂上の手前で金網の柵に突き当たり、右に折れました。 柵に囲まれた頂上には大きな丸い給水槽が設置されていました。 水槽の下を4分の1周回り込んだ所に右下に降りてゆく丸太階段がありました。 |
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階段を下ると北に向かう尾根の背に乗り、道の両側に紫陽花が奇麗に咲いていました。 |
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濃密な山林に囲まれ、あたりに人の気配がなく、北国の山特有のワイルドな雰囲気も漂っていなす。 いかにも熊が出てきそうな感じだったので時々熊笛を吹きながら進んでゆくと左下へ降りてゆく階段の上に出ました。 |
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紫陽花の間の幅広く長い階段を降り切るると沢の水流に沿った木道になりました。 |
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谷底に降り着いた所から右手へ回って行くと車道に沿った歩道になりました。 歩道の表面が苔に覆われ、踏み付けるのを躊躇うほど美しくなっている所がありました。 |
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歩道が尽きて車道に乗り、僅か進むと左側が開けきました。 開けた所は、あとで中尊寺でもらった境内案内図によればもとは蓮池が広がっていたそうです。 平地の向こう側に高木が林立している丘は中尊寺の森で、手前の山裾は拝観者が車を止める駐車場になっていました。 駐車場の入口には番人小屋がありましたが広場にはごく僅かな車しか止まっていませんでした。 |
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シャトルバスのポストの脇を通り過ぎるとT字路に突き当りました。 金色堂へ案内する道標に従って右折すると、木立の間を緩やかに登ってゆく道になりました。 高木が林立している森の中を僅か進むと、金色堂と讃衡蔵の間から中尊寺参道最奥部の広場に出ました。 |
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行動食は用意してきたものの適当な休み場がないままここまで来て空腹を感じていたので境内最奥部にある "かんざん亭" でそばを食べたいと思っていましたが、金色堂木戸番のおねーさんに聞いたら休業中とのことでがっかりしました。 仕方ないので讃衝藏前庭の縁の石ベンチにザックを下ろし平泉駅で買ってきたスナックサンドと小岩井農場チーズとを食べて空腹を凌ぎました。 覆屋に納められている金色堂は想像を遥かに越えた荘厳華麗でした。 古の陸奥に栄えた国の文化の洗練に驚きました。 |
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金色堂のあと経蔵、旧覆堂、釈迦堂を見て参道に戻り、左手に進んで行くとかんざん亭が見えてきました。 かんざん堂は入口が閉ざされ、灯火も消えていました。 |
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右手の小道から生垣の隙間を通り抜けると白山神社の境内でした。 この神社は、慈覚大師円仁が 850年に中尊寺を開いたとき寺の北方を鎮守するために勧請されたのだそうです。 神殿の手前に立派な茅葺きの能舞台がありました。 |
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この能舞台は伊達藩の勧進で造られたもので、背後に壁に描かれた松の緑りが長い年月に耐えて残っていました。 |
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中尊寺は翌日にまた来る予定ににしていたのでこの日はここまでとして参道に戻りました。 下山に向か道は生い茂った巨木の間をゆくもので、陸奥第一の古刹の風格充分でした。 |
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衣川合流点付近 (画像をクリックすると拡大) |
月見坂と呼ばれてい急な坂にかかる所で左手に分かれて回り下る道がありました。 そちらに立ち寄ってみたら小広場の縁の柵越しに衣川合流点付近の平地を見渡すことができました。 |
月見坂を下って行くと行く手に門前町が見えてきました。 |
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参道を下りきった所は旧参道と県道 300号線との間に作られた小園地に面したところでした。 園地の北寄りには弁慶の墓、南寄りにはバス停ポスト立ち、その後ろにバス待ち小屋を兼ねた山内案内図看板がありました。 |
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バスの待ち時間は充分あったのでのんびりしていましたがあと数分という所でこちら側のバス停は前沢方面行の乗り場で、平泉駅・一ノ関方面の反対向きということに気が付きました。 道路の向かい側を見回したら 50m ほど北に寄った観光案内所の向かい側で乗り場があることが分かり、もうすぐ定刻というタイミングで移動しました。 2分ほど遅れてきたおかげで無事に乗れたバスで一ノ関駅前まで直行。 ネットで予約してあったホテルに入りました。 ホテルはコロナで客足が途絶え、閑散としていました。 |
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ルートマップ (Android アプリの山旅ロガー 原画アルバムを参照するリンクです。 原画アルバムを参照するリンクです。 元画像は 2610画素ですが Google フォトへアップロードする際に縮小され 約1600万画素になっています。 |
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☆7月31日(曇): 一ノ関駅前から路線バスで中尊寺に戻り、まず前日割愛した讃衝藏(さんこうぞう) |
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高館 「夏草や....」 の芭蕉句碑付近から衣川古戦場 (画像をクリックすると拡大スクロール) |
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☆行動時間
☆ルートの概況 |
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前日の経験で一ノ関から平泉は JR線より路線バスの方が便利なことが分かったので、この朝も一ノ関駅前から出ているイオン前沢店行バスに乗って中尊寺へ直行することにしました。 中尊寺バス停は前日に見ているところで細長い三角公園の南端近く立っているバス停ポストの後ろ側に中尊寺境内案内板と兼ねた待合小屋があります。 |
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登拝口は左のように石橋と石の門柱が立ち、陸奥第一の古刹の威厳が漂っています。 |
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登拝口がら僅か進むんで月見坂に差し掛かりました。 巨大なヒバが並び立っている間を緩やかに登って行きます。 |
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坂を僅か登ったところに左に別れる道があったのでそちらに入ってみました。 左の写真のように旧参道と思われる道に出合いました。 T字路の突き当りに "←月見坂→" と記した標識と "八幡堂の由来" の解説板がありました。 坂ノ上手に見えたこじんまりしたお堂が八幡堂で、源義家が安倍氏追討戦の勝利を記念して建てられたと言われています。 このあたりはもと安倍氏の領土だった訳ですから周囲の住民とってはあまり面白くない建物だったかも知れません。 |
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八幡堂からひと登りしたところに弁慶堂がありました。 こちらは立派なお堂で青黃赤白4色の暖簾を軒下に掲げていました。 傍らに立っている解説板によれば、祀られている本尊は本尊の火伏せ勝軍地蔵菩薩で、弁慶立往生の姿絵と勧進帳安宅の関の場に出てくる笈が納められているということです。 |
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弁慶堂の裏側にあった道から参道に戻るとすぐ先の左側に瑠璃光院がありました。 名前に惹かれて入って見ようとしましたが門が閉ざされていて中に入ることはできませんでした。 左はその先にあった観音堂のこじんまり綺麗な姿です。 |
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観音堂の斜め向かいは中尊寺本堂の山門でした。 こちらも楼門ではなく、長屋門のような造りで、毛越寺のに似てす。 門内に入ると目の前にとても大きな本堂がそそり立ち、圧倒されました。 |
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札所でお守りを頂いたあと本堂前庭の左側にある北門から出ると峯薬師堂の池の縁に出ました。 |
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参道に出た所から見た峯薬師堂は左のように森厳な雰囲気です。 すぐ近くの向かい側には不動堂がありました。 |
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峯薬師堂の次は大日堂。 その先の小高い所に旧鐘楼がありました。 鐘楼とは言っても櫓作りではなく小高い土手の台に乗っている鐘撞小屋といった風な造作です。 |
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すぐ先の参道の向かい側は讃衝蔵(サンコウゾウ)で、中尊寺の宝物殿とも言うべき建物で、奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵しています。 平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められ、平安時代奥州藤原氏が造営した、往時の大伽藍中尊寺の様子を伝えています。 入場券は金色堂とセットになっていたのですが前の日は時間がなく金色堂を見ただけで帰りました。 今度は朝一番で十分な時間があるので落ち着いてじっくり見学し、北の国に栄えた洗練された文化の遺産を実感することができました。 |
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帰りの参道を通るのは前日下って今朝方登って来たのでもうお馴染みです。 お散歩気分でぶらぶら歩き、月見坂の手前から左手の脇道にそれました。 衣川古戦場を見渡せる展望所の奥の方に西行法師の歌碑が立っていて、 "きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは" と言う歌を刻んだ石碑が立っています。 ここに束稲山(タバシネヤマ)とは、北上川の対岸にある595m の山のことです。 平泉駅から2時間ほどで登れ、難所もないそうですから紅葉の時期に再訪した時に登ってみたいものです。 |
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月見坂の下の方にある門柱が中尊寺の寺域の境を示しているようでした。 |
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間もなく門前町に降り着き、朝の出発点となったバス停を通り過ぎたところでふた手に別れる道の左手に進入しました。 僅か進んだ所に JR 東北本線の踏切があり、線路の向こう側の山裾に卯の花清水が見えました。 |
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歌枕として有名な卯の花清水は今は水が涸れ、水道の水を引いているそうです。 なぜこの卯の花が名所になのか知りませんせんでしたが清水の脇にある黒御影の碑面に刻まれた説明によれば、 芭蕉の "夏草や . . . " の句に弟子の曽良が添えた "卯の花に兼房みゆる白毛かな" に因んだ歌枕として有名であることを知りました。 |
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卯の花清水から南に向かい、家並みの間の広い道路を進んでゆくと "高館義経堂" の入口を示す標識がありました |
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標識下で左折して進むと小高い丘の麓に突き当たり、そこからまっすぐ登ってゆく石段の袂に着きました。 階段を登った所は小規模な車止め広場になっていて広場の先の石段の登り口の脇に木戸番小屋がありました。 入場券を買って上段の階段を登り上げた所は北上川に沿った細長い丘陵の尾根の背で、尾根の裏側は崖状の急斜面になっていました。 左手の高みが義経堂がある高舘で、石段の上にお堂が見えていました。 |
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義経堂はこじんまりした神殿風の祠で、ガラス張りの戸の中に義経像が鎮座していました。 |
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悲運の勇者に一礼を捧げて石段を下ると一段下の踊り場の右脇に資料館がありました。 小さな建物の中にある展示はごく小規模でしたが奥州藤原の詳細な系図が掲げられていて、往時陸奥を支配していた人達の系譜を学ぶことができました。 |
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北上川 衣川出合付近 (画像をクリックすると拡大) |
石段を下リたところから南へ尾根の背の道を進むと左手へ視界が開け、北上川、衣川出合付近の平野を見渡す事ができました。 頼朝が派遣した大軍勢に破れて奥州藤原氏が滅亡した悲憤の古戦場です。 川向いの平野の先に小高い山が連なっているのが束稲山ですがこの日は前日より雲が低く、高い所は隠れていました。 |
展望所のすぐ先に芭蕉句碑がありました。 松尾芭蕉の奥の細道の一節として人口に膾炙している "さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢くさむらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて時のうつるまで泪を落しはべりぬ。" "夏草やつわものどもが夢の跡" が刻まれている句碑です。 |
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時が移る程の長居はできませんでしたがしばらくの間景色を眺めながら休んだあと山を降りました。 山裾の道を僅か進んだ所に立っていた道標によって左折し、南の川寄りにあり柳之御所跡に向かって進みました。 |
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柳之御所入口付近 (画像をクリックすると拡大) |
もとは、道のない藪山歩きのルートファインディング支援ツールとしてハンディー GPS を使い始めたのですが、その後スマフォに搭載されている GPS の性能が良くなり、大きな画面に地図を表示できるようになったおかげで、市街地や山里の道が細かく入り組んでいる所をスムースに通り抜けるにも GPS ナビゲーションがとても役に立っています。 予めチェックしておいたマーカに向かって適当に道筋を選んでゆくのですがうまく歩けているかどうかは、要所に立ってい道標にヒットするかどうかで分かります。 開けた所に出ると左手にわずかな高まりになっている広い土地がありました。 簡易舗装の道に進入してゆく広に芝生の端に上がりました。 |
目標のないだだっ広い草原の中に敷かれている一筋の簡易舗装の歩道を進むと差し渡し2m ほどの丸穴の跡が4箇所あり、その脇に "汚物廃棄穴群" と記した解説板が立っていました。 Google Maps ではここに "便所遺構" のマーカーが書き込まれています。 |
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広大な敷地に配置されていた大小様々な建物のあとを辿りながらひと廻りすると大きな池の近くに来ました。 池の中に島があり、その先の方に中尊寺の山と高舘の丘が並んで見えます。 これらを借景とした庭園が作られていたに違いありません。 |
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近くに無量光院跡があるようで、案内標識が見えましたが下調べができていなかったので次回の楽しみとして今回はスキップしました。 駅に向かって歩いてゆく途中にある伽羅之御所跡の位置はチェックしてできていたのでこちらは訪ねみることにしました。 予めチェックしてあったマーカを頼りに道を拾ってゆくと集落の中の十字路の角に "伽羅之御所跡" の看板が出ていました。 無量光院の東門に隣接し藤原秀衡の住まいになっていたところだそうです。 |
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ナビゲーションがうまく行ってピッタリ探し当てたのでシメシメと入って行ってみたら草薮の空き地の縁に出ました。 最近まで屋敷の跡だったのでは、と思われる感じの空き地で、向い側に "御所畳店" と大きな文字が描かれた看板を出した家が見えます。 |
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伽羅之御所跡の花 (画像をクリックすると拡大) |
雑然とした空き地で、発掘調査もまだ手がついていない感じでしたがここに住んでいた人の忘れ形見か、隅の方に綺麗な花が咲いていました。 |
端末で参照した国土地理院地形図には無量光院跡から平泉駅へ東側からアプローチできる幅広い道形が描かれていましたが、現場では見つかりませんでした。 近くの畑の中にいた人に聞いてみたが良く分からないので、来た道を戻りました。 僅か戻った所を左折してゆくと線路に突き当たり、線路沿いを北に向かって進んだところに踏切がありました。 |
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踏切から駅の方へ通じている道は両側には古風な商店が連なっていて、駅前広場に出る角に蕎麦屋、その手前に菓子屋がありました。 |
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駅で列車の時間を確かめたあと蕎麦屋に戻りました。 創業明治28年という蕎麦屋は30人以上入れそうでしたがほかに客がなくガランとしていました。 定番メニューのほかに期間限定3点があったうち "ボリュームたっぷり具沢山 冷やしそば" を注文しました。 しばらく待たされ、次の列車には間に合わないこととなりましたが、きれいに盛り付けられた "スーパー冷やし狐" は絶品でした。 そばを堪能したあと隣の菓子屋に立ち寄ってみたら地物の駄菓子が置いてありました。 何種類か買った中で秀逸だったのは梅干玉で、赤い梅味の皮で包んだ小豆餡団子の菓子は何十年振りかで、懐かしい味を楽しみました。 |
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(Android アプリの山旅ロガー 原画アルバムを参照するリンクです。 元画像は 2610画素ですが Google フォトへアップロードする際に縮小され 約1600万画素になっています。 |
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☆おわりに |
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