大峰、弥山-釈迦ヶ岳-前鬼 (2004.5.23-27)
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☆期日/山行形式: 2004.5.23-27 ホテル、営業小屋、避難小屋、民宿利用、4泊5日、単独
☆地形図(2万5千分1): 南日裏(和歌山2号-2)、弥山(和歌山3号-2)、
釈迦ヶ岳(和歌山4号-1)、池原(和歌山4号-2)
☆まえがき
昨年の10月、はじめて大峰と台高(大杉谷)を歩いた。
峻険な稜線と深いV字形峡谷を持つ大峰の山容には強く惹き付けられ、是非とも再訪したいと思うようになった。
大峰の真髄は谷にあると言われているが、年寄りの単独行だから色気は出さず尾根歩きに徹する事にした。
むしろ、そうする事で、広大な山域の全般的な概念を、短期間で把握できるということもある。
とりあえず吉野から前鬼まで、奥駈道を辿って熊野に抜ける事を企てたが、年を追って落ちてきた体力で全長を一度で踏破するのは無理なように思われた。
そこで弥山を境にふたつに分け、山中2泊の山行2回で歩き切る作戦とし、まず弥山から釈迦ヶ岳までの南半分を歩いてみることに決めた。
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八経ヶ岳頂上の展望、白川又川のV字谷の先の方に大台ヶ原周辺の山々が連なっている |
初日は樫原神宮前まで行き、近所のあすかの里でミニ観光するだけで駅前ホテルに宿泊。
二日目が入山日で、下市口駅から天川川合(600)へ行き、タクシーで行者還トンネル西口(1135)まで上がって歩き出し、弥山小屋(1880)に宿泊。
この山行のメインとなる三日目は、八経ヶ岳(1914.6)、明星ヶ岳(1894)から舟ノ垰(1594)、楊子ガ宿(1594)、孔雀覗(1775)、縁ノ鼻(1710)を経て釈迦ヶ岳(1779.6)へと奥駈道を縦走し、頂上南の深仙ノ宿(1500)にある無人避難小屋に宿泊。
四日目は下山日で、太古ノ辻(1450)から前鬼(810)に下山したあと、山麓の下北山村池原の民宿に宿泊。
そして最終日は、朝のバスで熊野あるいは新宮に出て、JR線に乗り、名古屋に戻って紀伊半島東半分を囲む大きなサークルを完成したあと、新幹線に乗り継いで帰るという四泊五日のノンビリ山旅計画にした。
久し振りの長期山行だし、エスケープルートのない深山を縦走する部分もあるので慎重に装備を整えたが、山行予定日近くに季節外れの台風がやって来た。
南方洋上を北上してくる台風に吹き込む北風の影響で肌寒い日が続き、風邪を引いてしまった。
折角組み立てた行程は変えなかったが、台風の動向とその後の天気の見通し、薬の効き目の顕れ具合、などを考慮して出発日を調整し、アプローチで使うタクシーや泊まり場の予約を変更した。
☆概略の記録
5月23日(曇り所どころ雨)
<タイムレコード>
宮崎台[11:05]=[11:24]長津田[11:30]=[11:46]新横浜[12:09]=(のぞみ15号)=[13:33]名古屋[13:50]=(近鉄特急鳥羽行)=[14:49]伊勢中川[14:54]=(近鉄特急上本町行)=[15:47]大和八木[15:51]=[15:56]橿原神宮前{近所を観光したあと駅前ホテル泊}
モロモロを考えた結果、最終的に出発日は5月23となった。
力ずくで喉鼻の粘膜の細菌を押さえ込むため、かかりつけの医師から貰ってあった取って置きの薬を持って家を出た。
薬の副作用で消化器官の調子はおかしいし、名古屋への新幹線の車窓は、時々俄か雨に叩かれるような状態で、少々気の重いスタートだった。
名古屋では近鉄線に乗り継ぐ。 さらに伊勢中川、大和八木で乗り継いで行ったが、その間も時々俄か雨の中を通り抜けた。
橿原神宮前駅では駅近くの小さなホテルに入った。
着いた時間が早くなかったし、体調ももうひとつだったので、近くにある橿原神宮と神武天皇稜とを見るだけにしたが、そのふたつの間に航空母艦瑞鶴の記念碑があるのを見つけたのは思わぬ収穫だった。
ひと回りしたあと、橿原神宮前十字路の角のレストランで簡単な食事して宿に戻り、体温調節機能が復活したかどうか、風呂に入って確かめてみた。
結果は "吉" で、大量の汗を掻いたあと、スッキリした気分になって身体が落ち着いた。
5月24日(晴)
<タイムレコード>
樫原神宮[9:31]=[10:02]下市口[10:15]=(路線バス)=[11:18]天川川合=[Taxi\4620]=行者還トンネル西口(11:50/12:05)-水場(12:10/20)-稜線(13:15/25)-聖宝宿跡(14:20/35)-尾根上の展望点(15:20/25)-(15:40)弥山小屋{同宿3人}
朝食は珍しく洋定食にした。
調子が戻り切っていない胃腸によかれと思ってのパン食だったが、かえって負担が重かったようで、久し振りにダンピング症になった。
1時間ほどベッドで休んだら気分が良くなってきた。 トイレで下痢を出したらあらかた治った感じになったので支度を整えて駅に行った。
吉野行きローカル列車は、天川河合行きの路線バスが出る下市口駅まで約30分ほど掛かる。
車中でまだ腹具合がおかしくなって来たので、下市口に着くとすぐ、駅前広場にできた新しいトイレに入ったらようやく落ち着いた。
月曜日とあってバスは空いていた。
天川川合まで、幾重にも重なる吉野の山並みを縫って三つの峠を越え、ふたつの長いトンネルをくぐって行く長い道のりだ。
河合では地元の人が2、3人降りたが、同乗していたハイカーは誰も降りなかった。
予約してあったタクシーが見えなかったので、バス停前の観光案内所から電話を掛けようとしていたらやって来た。
ドライバーは "西" の人間らしく如才なく、行者還トンネル西口登山口に着くまでの間に、色々な話を聞かせてくれた。
今日はこの春以来一番の天気だがこれまでは天気が悪く、遠くから来たのに弥山より先に行けずに引き返して帰った人も多かったし、行方不明や転落事故も多発しているという。
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台風と風邪のお蔭で、お天気の籤を引き当てたようだ。
トンネルの手前で車を降りた。
登山道は橋を渡った所に立つ道標から始まる(左)。
谷間を10分余り歩いた所に橋がある。
沢で水を汲んだあと、対岸の小尾根に取り付いた。
風邪の病み上がりなので遅めのペースでジワジワ登って行く。
ひと登りした所に石楠花が咲いていた。
紅の濃い奇麗な花だった。
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降りて来た者と擦れ違った。
弥山の隣の八経ヶ岳は、近畿の最高峰で百名山にも入っている。
マイカーでトンネル西口まで来て日帰りをする者が多いようだ。
道端に笹を見るようになると徐々に傾斜が緩み、やがて奥駈道に立つ道標が見えてきた。
思ったより楽に稜線に到達できたのでホッとして休んでいると若者が降りて来た。
途中で擦れ違った者もそうだったが、山を始めて何年も経っていない初心者のような風体だ。
峻険さでは国内トップクラスの山域だと思うのだが標高が最高点でも2000m
に満たないせいか、近県の人達は割合安直に登っているようだ。
そうだとすれば、丹沢と似通った状況で、割に事故が多いのかも知れない。 |
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鬱蒼と茂った暖地性濶葉樹林の中を緩やかに登ってゆくと弁天の森に着く。
行く手に大らかな姿の弥山が姿を現わした。
近畿最高点を持つ山に相応しい大きな山で、堂々とした風格がある。
暫く緩く下り気味に進み、最低鞍部から登り返して行こうとする所が聖宝ノ宿跡だ。
水が流れている窪を見下ろす平坦地に理源童子のブロンズ像がある。
やや急な岩っぽい登りが始まった。
数組の下山パーティと擦れ違ったがその暫くあとで下の方が賑やかになり、やがて熟女二人組と、その後から年寄り単独者が追いついてきた。 |
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こちらは自分の身体と相談しながら歩いている所なので、どうぞといって道を譲り、先に出てもらう。
和佐又の小屋のだと言う犬が随いている。 慣れっこの感じで、あとになり先になって歩いている。
途中から尾根の北側をジグザグに登る階段になった。
造りの丁寧な木製階段は、歩きやすくもあり、難くもあるという感じだ。 両足の筋肉を平均に使うよう、注意していないとどこかの筋肉を頚痙させる恐れがある。
大分登った所で一旦尾根の上に出る。
久し振りに視界が開け、谷向いに稲村ヶ岳と山上ヶ岳が見えた。
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ふたたび尾根の右斜面に入って、よく整備された道を進んで行くと小屋の発電機のエンジン音が聞こえてきた。
手摺の付いた鉄の階段を登ると弥山頂上の一角だ。
道の両側はびっしり青苔類に被われ、いい雰囲気になっている。
この頃、有象無象で混むようになった百名山は敬遠して近付かないようにしているが、今日は皆降りていってしまい、静かなものだ。
遥々来て登って良かったと思った。
弥山小屋は大きな小屋だった。
数年前に建て換えられたということでまだ新しい。
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同宿は登りで遭った岸和田からの女性二人と九州からだと言う同年の単独者だけ。
このような状況ではいつもそうなるのだが、たちまち仲良しになって即席の同窓会が結成され、色々な話題が弾んだ。
日暮れ前に弥山の頂上に行ってみた。
狼平を経て河合に下る道が左に分かれたすぐ先が頂上で、神武天皇稜とよく似た鳥居と柵囲いのある神域になっていた(左)。
小屋に戻る途中、10数年前に皇太子が来られたことを記念する文字を刻んだ石柱が立っていた。
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5月25日(快晴)
<タイムレコード>
弥山小屋(6:45)-八経ヶ岳(7:10/20)-明星ヶ岳(7:50)-仙宿跡付近(8:25/30)-舟ノ垰(9:20/30)-楊子ヶ宿跡避難小屋(10:15/30)-仏生ヶ岳南肩(11:15/20)-孔雀岳水場(12:10/15)-孔雀覗(12:35)-椽ノ鼻(13:00/10)-小休止(14:00/10)-釈迦ヶ岳(14:15/35)-(15:20)深仙ノ宿{避難小屋 水有ドア無
同宿1人}
雲ひとつ無い青空の広がる朝がきた。
今日は釈迦ヶ岳を越した所にある深仙ノ宿まで行って避難小屋に泊まる予定で、ザックは少々重いが時間的な余裕はたっぷりある。
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南奥駈道も踏破すると意気込んでいた九州オジサンは6時前に出て行った。
それを見送ったあと、ゆっくり支度を整え、小屋の外に出た。
これから行く八経ヶ岳やひと晩お世話になった小屋の写真を撮っていたら岸和田組が出てきて記念写真のシャッター押しを頼まれた。
河合に下るという二人と別れてボツリボツリと歩き出す。
ルートは昨日来た道と同じように濃密な林の中を通っている。
年間5000mm以上という国内最高レベルの降水量と温暖な気候が草木の元気を保っているのだろう。
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鹿柵があった。 食害で絶滅寸前になったオオヤマレンゲを守るためのようだ。
鹿柵のドアを何度か出入りしながら登って行って八経ヶ岳の頂上に着いた。
北から東側の樹木が伐り払われていて広大な展望が得られた。
北方にはすぐ隣の弥山と、その先に山上ヶ岳から大普賢岳への山々が並んでいる。
東は、深く刻み込まれた白川又川のV字峡谷の先の方に大台ケ原とその周辺の山々が並んでいる(見出しパノラマ)。
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近畿の最高点からの展望を暫くの間、楽しんだあと釈迦ヶ岳への縦走路に入った。
歩く人の数がガクンと少なくなることが、道の踏まれ具合で分かる。
八経ヶ岳の南面に回り込んで行くと釈迦ヶ岳が見えて来た(左)。
こちらの方が高い所にいるため威圧感はないが、うねり繋がっている頂稜の先に立っている端麗な山容は印象的で、奥駈道南端のマイルストーンとされているのはまことに尤もだと思った。 |
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倒木などでやや混沌した感じの所を進んで明星ヶ岳を過ぎ、ひと下りした禅師ノ森のあたりからは美しい疎林の中を進むようになる(左)。
南の方から歩いてきた行者と出遭った。
こちらと同年位の年寄りとその子かと思われる三十男の二人組だ。
弥山からの時間を聞かれたので2時間半ほどと答え、労をねぎらって分かれた。
仙宿跡のある1540m 台の最低鞍部付近では左下に大きく広がる七面谷源流部が奇麗だった。
人を誘い込むような雰囲気が漂い、"七日迷" などと言う地名があるのを、なるほどと思った。
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二重山稜が断続している舟ノ垰(タワ)で小休止のあと、登りに掛かると笹原の疎林になる(左)。
ノンビリ休みたくなるような気分の良い所だがこの先に難路が待ち構えている事が分かっているので気が許せない。
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七面山への薄い踏跡が右に分かれているのを見た所から楊枝の森の西肩を捲いて行くようになる。
捲き道が終わって頂稜上に戻り、少し進んだ所で振り返ると七面山南面の大ーが真近かだった(左)。
八経ヶ岳から見ると、七面山は楊枝の森から派生している尾根上の瘤にしか見えないのに、南側からは大迫力で、裏と表の様相がこれほど違う山も珍しい。
身延にも同名の山がある。
頂上直下から発する大ガレがあると言う点で似通った所もあるが、大きな独立峰で、頂上近くに大寺院があるから大分様子が違う。 |
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行く手の仏生ヶ岳が次第に高く見えてくるのを恨めしく思いながら高度を下げて行くと、鞍部に楊枝ヶ宿の避難小屋があった。
数年前に出た山渓のガイドブックには、ここの小屋は倒壊して使えないと記されているが今は15人くらいなら十分収容できる堅固な二階建ての建物として再建されている。
水場へ100m というサインもあり、この夜泊まった深仙ノ宿の小屋よりずっと居住性が良いのではないかと思われる。 |
仏生ヶ岳への登りはちょっとしたアルバイトだが頂上の西肩を通って南側に抜ける。
釈迦ヶ岳が真近かになった。
孔雀覗から本峰取付のコルまで、樹木に被われた平尾根は、一見なんともなさそうだったが実際には修験の道場に相応しい難場が続き、シッカリしごかれる事となった。
沢上部のガレ場を注意して横切って孔雀岳とのジャンクションに上がり、前衛岩峰の東側を捲いて行くと水場がある。
草原の中に染み出している水がとても美味しかった。 |
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水場のすぐ先が孔雀覗で、稜線の左側が切り立ち、谷の中に岩峰の塔が林立しているのが見える。
疎林と茅戸の尾根になるが所どころに岩場があって行く手を遮る。
木が多いので高度感はないが気が抜けない。
鎖を掴んで降りるような所も3、4ヶ所ある。
椽ノ鼻は眺めの良いテラス状の岩場で、よい休み場だった。
正面に釈迦ヶ岳が高く険しく聳え立っている。
取付のコルまで3箇所の前衛岩峰を捲いて行くのが、ここまで歩いて疲れが溜まった老体にはきつかった。
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狭苦しいコルを渡った所から本峰への急登が始まる。
ここを越さなければオウチに帰れないんだから、と自分に言い聞かせつつ急登に耐えていると徐々に傾斜が緩み、ポンという感じで頂上広場に飛び出した。
等身大の大きな釈迦像の立つ頂上は、近くに高い山のない尖ったピークであるため、360度の視界が得られ、苦労して登りついた喜びを一段と高めてくれる。
釈迦如来像は神々しく清らかな雰囲気を漂わせている秀作で、とかくありがちな違和感を感じさせない。
駄目モトと思いながら家に "携帯" を掛けてみたら思い掛けなく繋がった。
体調が悪いまま出てきたが何とか無事に計画通り歩いて最後のピークに登頂し、予定通り帰宅する積りだと、弥山頂上からは不可能だった連絡をした。 |
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頂上の北側を覗きこむと、今通ってきた仏生ヶ岳、孔雀岳から椽ノ鼻を経てこの山に繋がっている頂稜が一望だ。 |
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南の方にはすぐ近くにある大日岳を経て、南奥駈道の山並みがうねうねと連なっている(左)。
深仙ノ宿へは、僅か西に進んだ所にある分岐に立つ道標から左に入る。
茅戸の疎林の中の穏やかな道で、よく踏まれている。
これまでの緊張感から解放され、ノンビリ下って行った。
やや急な所を降りてゆくと下の方に参篭所の赤い屋根とその向かい側に立つ避難小屋が見えてきた。
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降り立った所は山中の別天地ともいうべき広広とした平坦地で、その北寄りに参篭所、南端に避難小屋が建っている。
避難小屋は5m 四方位の大きさで、内部はイロリのある3m 四方ほどの土間を、幅 1m
ほどの板敷きの床が、凹形に囲んでいる。
5〜6人くらいまでだったら快適に泊まれる位の作りだったが、入口のドアが壊れてなくなっているため、動物が塒に利用するようになっているようで、板敷の真中にキジが打ってあったり、土間と床の境に尿が掛けてあったりした。 |
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まず、清掃をしてビニールシートとマットレスを敷き、その上に寝袋を広げて
"人間の塒" にする。
水場は100m 程北寄りの岩壁の裾で、岩の割れ目から沁み出しているのが水槽に貯められている。
量は少ないが飛び切り美味しい水だった。
備え付けのポリタンに5リッターほど汲んで小屋に運び、ハードワークに巻き込まれて調子が悪くなった胃袋の元気付けをするため、ペパーミントティーを淹れて飲む。
寝袋に入ってお茶を飲んでいると、外で足音がし、間もなく若者が入口から中を覗き込んだ。
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テント泊で弥山の方へ縦走しようと前鬼から上がって来たのだそうが、相棒がいるなら小屋に泊まろうという気になったらしく、大型ザックを運び込んできて、向かい側の床の上に
"お店" を広げた。
若者は京都の大学生で、高校山岳部で山を覚え、今でも山の同好会のメンバーだという。
やる事、振る舞いが板に着いていて危なげがなく、久し振りにキチンと山を歩ける若者に出会ったような気がした。
明るいうちはボツリボツリと山談義をしていたが、暗くなるとすぐに、入口を板で塞ぎ、ローソクを消して寝る体制になった。
不思議な物で、家にいればパソコンやレコードでいつも日の代り時まで起きているのに、山では暗くなると自然に神経が沈静して眠りに向う。
昼間、何頭もの鹿を見かけたし、小屋の中にも動物の気配があったので、夜中にきっと何かが出てくるだろうと思っていたのだが、熟睡して気付かなかったのか、全くそのような事もないうちに夜が明けた。
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5月26日(晴)
<タイムレコード>
深仙ノ宿(6:55)-太古ノ辻(7:20)-沢をふたつ渡った尾根上(7:50/55)-二ツ岩(8:20/25)-小休止(8:45/50)-前鬼(9:15/10:05)-(10:25)駐車場(10:30)=[Taxi\5630]=池原きなりの湯(11:00/14:30)-(14:40)池原{民宿もりなか
同宿釣り客数人}
入山三日目の朝も快晴になった。
元気な青年は夜明けとともに起きだして早々に朝食を済ませ出発していった。
昼前に弥山は楽勝だろう。
こちらは前鬼に下山し、夕方まで山麓の下北山村池原の民宿まで行けばよい。
中身がまるで違うがやはり楽勝であることに変わりはない。
若者を見送ったあと、暫く経ってからシラフから這い出したが、相変わらず食欲がない。
風邪薬の副作用がまだ後を引いているのだろうが、高度の影響もいくらかはありそうだ。
胃を切った後遺症のひとつである慢性貧血は、掛かりつけ医のノウハウで、ビタミン(B12)を服んで最低レベルの赤血球は維持している。
山で泊まるのは、標高2300m 前後までなら問題ないとしていたのだが今回寝たのは、精精1500m程の高さだった。 それなのに調子がおかしいのは、風邪薬の後遺症なのか、それとも歳のせいで身体性能が落ちたのだろうか?
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美味しい山の水で淹れたコーヒーを啜りながら、少量のパンとチーズを胃袋に入れたあと、下山の支度をする。
小屋の裏から笹の疎林の中を約30m ほど緩やかに登れば太古の辻の下降点まで登りはない。
大日岳は、いずれ南奥駈道をトレースしに来るだろうからパスして捲き道を直進。
ひと下りで太古の辻に着いた(左)。
ここは吉野から南下してきた奥駈道の終点であるとともに、笠捨山、玉置山を経て熊野本宮に至る南奥駈道の始点でもある。
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道標に従って左の山腹を斜下降してゆく道に入って進むと間もなく尾根の背に乗り、やや急な下りが始まる。
道の整備はやり過ぎと言っても良いくらい行き届き、至るところに新しい木製階段が設けられている(左)。
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下降路に入って1時間近くでふたつ石に着いた。
昨日孔雀覗から見下ろした谷の中の岩塔のミニ版がふたつ、尾根の樹木の間に並び立っている。
ここを過ぎると、尾根の南斜面に入り、谷底に向って急降下するようになる。
相変わらず丁寧に木製階段が設けてあって歩きやすいのだがそれがかえって単調で注意散漫となり、ウッカリするとステップを踏み違えそうになる。
途中、谷の源流のガラ場を渡って対岸に上がるような所が二、三ヶ所あるがルートは明瞭だ。
谷底に降りた道は次第に傾斜が緩み、やがて鬱蒼とした杉林の中に入る。
沢の左岸に移って平坦な道を僅か進むと、昔の宿坊の屋敷跡の石垣の下を通り、明るく開けた車道に面した小仲坊の建物の間に出た。
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ここから池原まで10Km あまり、午後半ば過ぎに前鬼口を通るバスに乗るにせよ、全部歩いてしまうにせよ、あり余るほどの時間がある。
幾つかの建物はあったが人の気配がなかった。
次に来るときのためひと通り様子を見て歩く。
山から出てきた所にある大きな建物が宿泊所で、中は50畳ほどもの大広間になっていた。
下駄箱の脇に郵便受けが掛けてあって、ここに宿泊費4000円を入れて下さいという掲示がある。
真新しい二階建てのトイレがあったので僅かな量のキジを打って石段に置いたザックの所に戻ったら、軽装の熟年ハイカー四人が休んでいた。 |
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弥山から縦走して来れば大変な釈迦ヶ岳も、こちらから往復すれば日帰りで容易に登れるから結構来る人が多いようだ。
宿泊所の玄関先に公衆電話のボックスがあった。
無事下山した事を家に知らそうと100円を投入したが何度やっても素通りしてしまう。
壁に、"電話用の10円です。 大事に使ってください" と言うメモが貼ってあったので、2枚しかない10円玉を入れて見たら受け付けてくれた。
たった20円では家には掛けられないので池原タクシーを呼び出してみたら繋がった。
物の弾みだったが、まぁいいや、と思って前鬼下の駐車場から池原まで運んでくれるよう頼んだ。 |
タクシーを使えば昼前早くに池原に着いてしまうだろうが、集落の手前に日帰り温泉があるようだからそこで汗を流して着換え、ゆっくり食事をして宿に行くことにすればいい。
前鬼の駐車場まで、谷奥に聳えている大日岳や今降りて来た尾根を見ながら、20分ほどの道のりだった。
こちらのドライバーも如才がなく、この辺りのことを色々話してくれた。
小仲坊のオーナは普段は寝屋川市に住んでいて休日にしか来ないが最近仕事から退いたのでいずれフルタイムで宿坊の管理をする様になるらしい。
タクシーは要すれば小仲坊まで入る事ができる。
前鬼口の手前で眺めた不動七重滝は水量が豊かな立派な滝だった。
池原ダムの発電所は国内最大の水力発電所だと言うことなど。
5000円あまりの予定外出費ではあったが、色々な情報が得られ、それなりの収穫があった。
"きなりの湯" は、池原ダムの下手の河川敷を利用して作られたスポーツ公園の脇の台地にあった。
最近各地で見るのと同じような日帰り入浴施設だったが広くて新しく上に空いていて居心地が良かった。
ゆっくり温泉に浸かったあと、そばのセットメニューを食べたがまだ働きが戻り切っていない胃袋には少々負担が重かったようだったので休憩広間に行って横になって休んでいたら、何時の間にか眠ってしまった。
ひと眠りして目が覚めた時にはかなり気分が良くなっていたので運動公園の中をブラブラ歩いて民宿に向う。
宿は集落の入口の三又路の脇に建っているやや古い大きな建物だった。
エプロン姿の若い女将さんが案内してくれた部屋で久し振りにテレビを見ながら休みの続きをした。
池原湖は、バース釣りのサイトとして有名で、遥々東京の方からも泊りがけで来る釣人がいるほどだと、夕食のときに主人から聞いた。
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5月27日(薄曇り)
<タイムレコード>
池原(9:00)=[宿の車に便乗]=(9:50)熊野駅[11:38]=[14:35]多気[15:04 南紀6号]=[16:17]名古屋[16:24
のぞみ134号]=[17:46]新横浜[17:57]=[18:11]長津田[18:15]=[18:37]宮崎台
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山の早寝早起き癖が身体に染み込んで日の出に目が覚めた。
コーヒを淹れて飲み、あり余る時間を利用して村の様子を見て歩いた(左)。
集落の中ほどのトラス構造の橋は大正時代に掛けられた物で当時は、画期的な大橋として有名だったらしい。
また、ダムができる前の北山川は水量豊かな清流で、鮎釣の名所でもあったと言う。
高台にある小学校は大きなコンクリート建てだがすでに廃校になっている様で校庭に草が伸び、大形のダンプカーが駐車してあった。
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宿に戻ってゆっくり朝食を食べたが、9時45分の熊野、新宮行きバスまでまだ大分時間があるので食休みを兼ねて部屋でゴロゴロしていたら主人が来て、急な用事で熊野の方に行くことになったので良かったら車に便乗しないかという。
のんびりバスの旅もいいんだけどなぁ、とちょっと迷ったが時間があればまた何かできる事があるかも知れないと思い直し、ありがたくご好意に甘える事にした。
9時頃に出発。
熊野市駅まで1時間近くのドライブだったがその間に、宿の主人から、この辺りの地理や山の様子について色々聞く事ができた。
モロモロあわせると、南奥駈道はちょっと遠くはあるが、よく調べたり考えたりして計画を練れば、年寄り身体障害者でもソコソコ歩くことができそうだと思えるようになった。
熊野市駅では1時間半以上もの長い待ち時間があった。
そのおかげで、駅の隣にある観光案内所で熊野古道関係の資料を色々手に入れ、駅前通りの果物屋で地物の枇杷を買って食べたあと、駅の向かいにある寿司屋に行き、車中の食べ物と家への手土産に、作りたてのサンマ寿司とメハリ寿司とを仕入れることができた。
時間潰しを兼ねて、多気までは普通列車で出た。
ゴロゴロ走るジーゼル車は延々3時間も掛かったが、海沿いを走ったり、山間に入ったり、変化に富んでいる。
野趣豊かな寿司を摘みながら沿線風景を眺めていれば退屈とは無縁で、楽しいローカル線の旅だった。
去年の10月、大杉谷から出てきて松坂行きバスに乗り継いだ三瀬谷を過ぎると多気は近い。
多気でも長い乗り継ぎ時間があったのでコーヒでも調達しようとしたがとてもそのような雰囲気ではなかったので諦め、乗り継いだ特急の車内販売で賄う事となった。
湿気が増えた大気を透かしてようやく鈴鹿の山並みを見分けた辺りからは沿線の景色もまわりの乗客も気ぜわしい週日の雰囲気となった。
さらに、新幹線のぞみでは乗客のほとんど全部がビジネス客で、いささかの周囲との違和感を感じながらの旅の結末となった。
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☆おわりに
1300年余りの歴史を持ち、我が国の信仰登山のルーツである大峰の奥山を、はじめて歩いた。
地理的な条件と気候との相乗効果の結果なのだろうが、草木の元気がよく、自然が力を保っていた。
近頃、名の知られた山では踏みしだかれた登山道や衰弱の兆しを示す森を見て、ため息をつく事が多くなっているのだが、ここでは
"強い自然" が健在だった
体調は必ずしも万全という訳ではなかったのだが久し振りに "山で寝て" 命が延びる思いをした。
できるだけ早い時期に "奥駈道北部" を歩きに行きたい。
南奥駈道もこの1、2年の間にひと通りトレースしてみたい。
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